チャハール
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チャハル(Chakhar)は、近世以降のモンゴルの有力部族集団のひとつ。清代以降にはそれらの遊牧する地域を指す名称としても用いられた。漢字表記は察哈爾。

15世紀末に北元モンゴル(韃靼)のダヤン・ハーンモンゴル高原の諸部族を統一して6個のトゥメン(万人隊)と呼ばれる大集団に分けた際、ハーン直轄のトゥメンに編入された部族集団の総称として用いられるようになった。その起源は不明であるが、を立てたクビライの母ソルカクタニ・ベキを女神として奉仕する祭祀をもっていたことから、元朝伝来のクビライ家直属の領民集団の後裔であると推測されている。

ダヤン・ハーンの定めた6トゥメンの配置では左翼(東部)に属し、大ハーン直属の領民としてモンゴル全体の盟主であるとともに、ハルハホルチンなど東部の諸部族の盟主であった。はじめ大興安嶺の西側に広がって遊牧していたが、右翼(西部)のトゥメンのひとつトメト部を領したダヤン・ハーンの孫アルタンが強力になり、アルタンの従兄弟ボディ・アラク・ハーンはアルタンに右翼のハーン位を認めた。この譲歩によりチンギス・ハーン以来守られてきたハーンの称号はひとりの君主が独占する原則が破れ、ダヤン・ハーンによって再編されたハーンの全モンゴルに対する支配力は大きく揺らぐ。さらに、ボディ・アラクが没するとチャハルはアルタン・ハーンによってさらに圧迫され、大興安嶺の東側に逃れて逼塞した。

しかし、チャハル部は高原東部から東北平原(満州)にかけて最大の勢力でありつづけ、17世紀に入るとリンダン・ハーンが立って大ハーンによる全モンゴルの支配を復活しようとした。この強権支配を嫌ったホルチン部は満州人後金の前身)と結んで対抗した。後金のヌルハチはチャハル部をたびたび破り圧迫したので、リンダン・ハーンは新天地を求めて西方へと移動を開始し、内モンゴル中部のハラチン、西部のトメトを次々に併合すると、黄河の屈曲部に入って右翼の盟主オルドスを屈服させたが、1634年に死去した。

リンダンが死ぬと、その子エジェイは後金との抗戦を断念し、後金のホンタイジに降伏した。このとき、リンダンが保有し、チャハルのハーンによるモンゴル再統一の正統性の象徴としていた元の玉璽がホンタイジの手に渡り、ホンタイジはこれを天命が交代した象徴として、1636年に国号を金から大清に改めた。これ以来、清の皇帝はチャハル王家にかわって全モンゴルのハーンとして君臨することになる。

エジェイはホンタイジの娘を娶わせられ、親王爵位を与えられて清の皇族として遇せられて、そのまま内モンゴルの中部に留まったチャハル部を領した。しかし、その子で親王の爵位を継承したブルニが1673年三藩の乱に呼応して反乱を起こし、康熙帝に鎮圧された後、チャハル王家は取り潰された。チャハル部族は解体されてモンゴル人の王家を通さずに清の皇帝が直轄支配する総管旗に再編され、張家口の北の草原でチャハル八旗、チャハル四牧群などが設置された。張北口には清の官僚であるチャハル都統が置かれ、チャハル八旗はその配下として皇帝直属の領民とされる。ただし、エジェイのときにチャハル王家の統括を離れ、皇帝直属のホシューン(旗)となっていたウジュムチン、ホーチト、スニト、オーハン、ナイマンなどのチャハル部の分家はブルニに従わず、そのままダヤン・ハーンの子孫を旗長とする遊牧部族として続く。

清末になると、チャハル八旗の領域は農地化が進み、牧地が減少した。清の滅亡後、1914年にチャハル八旗は周辺のチャハル系遊牧領はチャハル特別区とされ、1928年に解体されて東部に張家口を省都とする察哈爾省が置かれた。また、西部はフフホトを首都とする綏遠省に編入された。

中華人民共和国成立後の1952年、察哈爾省は再び解体され、北部は内モンゴル自治区に併合され、南部は河北山西両省に編入されて省を廃止された。かつてのチャハルの牧地の主要部は内モンゴル自治区のシリンゴル盟バヤンノール盟などに属するが、遊牧生活はほとんど廃れ、定住牧畜や半農の牧畜しか行われていない。


外部リンク

古〜い世界地図(察哈爾省や綏遠省の地図が閲覧可)
カテゴリ: モンゴルの歴史 | 内モンゴル自治区 | モンゴル系民族

更新日時:2008年6月28日(土)11:54
取得日時:2008/08/25 07:46


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki