パリ・ダカール・ラリーで通過する国(オレンジは1992年のパリ〜ル・カップで通過した国)2002年の第24回大会で優勝したときの増岡浩選手のパジェロ
ダカール・ラリー(正式名称ユーロミルホー・ダカールラリー、通称パリ・ダカ)とはラリー競技大会の一つで、「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている。
目次
1 概要
2 歴史
3 コース
4 車両
5 ダカールラリーと日本
5.1 出場した主な日本人
6 開催日程
7 歴代優勝者
7.1 オート(四輪)
7.2 モト(二輪)
7.3 カミオン(トラック)
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
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1979年から始まり毎年行われていて、例年1月1日(近年は前年の12月末)にフランスの首都・パリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都・ダカールまでのおよそ12000kmを走る。1981年より国際自動車連盟(FIA)と国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の公認レースとなっている。世界を代表するラリーレイドの大会のひとつである。
途中ほとんど集落や救護施設のないサハラ砂漠を縦断する過酷な競技なため、時折死者・負傷者も出る。競技区間には、西サハラなど政治的に不安定な国も入っていることも「世界一過酷」と呼ばれるゆえんである。
フランスなど欧米を中心とした選手とメーカーがかつて植民地として支配していたアフリカ諸国で行っている競技だけに、植民地主義的だとする批判が根強く存在する(テロの標的にされる理由の一つ)。アフリカの一般住民の住む地域を競技車両が猛スピードで駆け抜け住民と競技車の事故も発生しており、批判されるのもやむを得ないとする見方も多い。
冠スポンサーは2007年はポルトガルでロト(日本でいえば宝くじ)を販売するユーロミルホーが務めた。過去にはテレフンケン( ⇒de:telefunken:ドイツの電機メーカー)、トタル(フランスの石油メーカー)、テレフォニカ(スペインの通信会社)等が務めている。日本企業ではパイオニアが1991年に冠スポンサーを務めた。
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本ラリーの創始者はティエリー=サビーヌである。「私にできるのは、”冒険の扉“を示すこと。扉の向こうには、危険が待っている。扉を開くのは君だ。望むなら連れて行こう」は、1978年の第1回開催の時に彼が言ったとされる。ティエリーは運営団体としてTSO(ティエリー・サビーヌ・オーガニゼーション)を設立、主催者としてパリ・ダカを象徴する存在となる。しかし、ティエリーは1986年に競技期間中に起こったヘリコプター墜落事故により死去、彼の遺志とTSOは父親であるジルベール=サビーヌによって引き継がれた。だが、そのジルベールも高齢を理由に1994年1月に引退。TSOは主催者権を売却し、1994年からはフランスのアモリー・グループである「ASO」(アモリ・スポル・オルガニザシオン)が主催している。
1986年の大会では6人の死者を出したことがある。
1988年にはオート部門首位だったアリ・バタネンの車両が盗難に遭うという事態が発生した。
1999年にはテレビ局の取材担当者らがテロ組織に襲われた。今日はテロ組織だけでなく強盗も現れ、ドライバーがその被害・脅迫に遭遇することは少なくない。
2008年は走行区間のアフリカ北西部モーリタニアの治安悪化のため、開幕前日になって全区間開催中止が発表された[1]。2008年の再開催の予定はなし。2007年末のフランス人旅行者殺害事件を契機にフランス政府が事実上のレース中止勧告をしていたほか、主催者にも直接テロの脅迫が届いていたという。レースが全面中止されるのは30年の歴史で初めてである。
主催者側はテロの危険が絶えないサハラ砂漠からの撤退を含めた議論を示唆した[2]。