タジク人
★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[Wikipedia|▼Menu]

タジクは、タジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国新疆ウイグル自治区の西部などに居住するペルシア民族。元来、中世から近世にかけての中央アジアイラン高原といった中央ユーラシアの乾燥地帯において、住民を、ペルシア系の言語を使い都市、あるいはオアシス集落定住民が多く、都市文化になじんだ諸集団に属する人々をタージーク(タジク)、テュルク系の言語を使い、都市やオアシスの間に広がるステップ地帯で遊牧生活を送る遊牧民の諸集団に多くが属している人々をテュルクと呼んで大きく2つに大別していたことに由来する、近現代的民族区分である。

現在タジク民族とされている人々は、バクトリア人、ソグド人サカ人等、中央アジアの歴史に名を留める多くの民族の系譜を引いている。タジク民族の基となったタージークと呼ばれる諸集団の原型は、9世紀から10世紀に東ペルシャ語を話していた古バクトリア人及びソグド人が西ペルシャ語族に属するダリー語(ファルシー語)を話すようになっていった9〜10世紀に形成された。13世紀のモンゴルの襲来や、それに先立つ、この地域の遊牧民の言語的、文化的テュルク化までには、この言語を話す人々は、ギンドゥクシャ北方及び南方の広範囲なオアシスに広がり、定住するに至っていた。
目次

1 タジキスタンのタジク人

2 アフガニスタンのタジク人

3 中国の「タジク族」

4 関連項目

5 外部リンク

//


タジキスタンのタジク人

タジキスタンにおいては、1929年12月5日のタジク・ソビエト社会主義共和国設立時、約200万人のタジク人がウズベク領内に、約100万人のウズベク人がタジク領内に残された。

ただし、当時のソ連政府が統治イデオロギーとして解釈、宣伝するマルクス・レーニン主義の公式のように、ウズベク人なる民族がウズベクの地(ウズベキスタン)で、タジク人なる民族がタジクの地(タジキスタン)で、それぞれ定まった発展段階を経た進歩の歴史をたどってきたという公式解釈は歴史の現実とは異なる。

ウズベキスタン、タジキスタンと呼ばれる土地のいずれにおいても、タジク人なる民族とされるようになるタージークの人々が都市やオアシス集落を拠点とした都市的生活を送り、農業、手工業、文書行政官僚、学者などとしての生活を送り、ウズベク人らテュルク系を主体とする遊牧民諸勢力が都市やオアシス集落の間に広がるステップ地帯で遊牧生活を送りつつ、時には都市やオアシス集落を訪れて交易を行い、またその中の盟主的集団が、その騎馬軍事能力に物を言わせて都市やオアシス集落にもその支配権を及ぼす、広域にわたる軍事警察力、政治力を振るっていたのである。そのため、巨視的には両者は同じ土地でモザイク状に入り混じって一種の住み分け生活をしており、それをウズベキスタン、タジキスタンと人工的な領域区分をすれば、それぞれの領内に「本来その土地の民族ではない者たち」が大量に残されてしまうのは理の当然であった。

タジキスタン共産党初期の要員は、南部人、カラテギン(沿パミール地区)、パミール及びクリャーブの一部の代表者から形成された。ボリシェビキの政策は、山岳人が閉鎖的な生活様式を変える契機ともなった。カラテギンだけはイスラム教の影響下に残され、タジキスタンの現状にも影響している。

1937年、最初にタジク革命政府を樹立した南部人は、完全に粛清された。第二次世界大戦後、ホジェント出身者に権力が移った。

ホジェント(旧レニナバード)は、イスラム神学のエリート、ホジャーの領地である。その規律と互助は、彼らが80年代に至るまで権力を維持することを助けた。しかし、パミール人とクリャーブ人も、権力闘争に加わり始めた。

最南部地域のクリャーブは、イスラム保守主義に晒されず、迅速に新しい価値を受け入れたが、その代表者達は、党指導部において常に二次的な役割に甘んじ、地区自体は常に最貧地区の1つだった。

ゴルノ・バダフシャン自治州の住民であるパミール人は、他の地域とは異なる民族、文化、言語を有し、宗教的にはイスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派に属する(タジク人の多くは、スンニー派)。

タジキスタンにおける科学と文化は、サマルカンド及びブハラ出身者が担った。


アフガニスタンのタジク人

現在のアフガニスタン北部に居住するタジク人は、ドゥッラーニー朝の創設者アフマド・シャー・アブダーリーにより王朝支配下の構成集団に編入された。これが近代国家として認識されるようになる、近現代アフガニスタン国家の国民として、タジク人が含まれるようになる起源である。それ以来、パシュトゥーン人の統治者は、国の統治に当たって、タジク人を考慮に入れざるを得ず、1936年まではタジク人が使用するダリー語が唯一の公用語だった。

ただし、アフガニスタンのような中央ユーラシア世界において、テュルク系を主体とする遊牧勢力が、得意とする騎馬軍事力を基に軍事力、王権、政治を担当し、都市文化に精通し、文書事務を得意とするタージーク勢力が拠点都市で文書行政を担当するという構図は、中世から近世にかけては普遍的なものであった。アフガニスタンの場合にも、この時代の遊牧軍事勢力としては珍しく、テュルク系ではなく、インド・イラン語派の言語を使用するものの、遊牧騎馬軍事勢力たるパシュトゥーン系の王権勢力が、自らは騎馬軍事、王権、政治に専念し、文書行政を都市やオアシスを拠点とするタージーク勢力にまかせ、タージーク勢力の言語を行政公用語として採用するという事自体、中央ユーラシア世界の文化状況としてはごく普通の現象であった。

また、1776年、アフガニスタンの首都は、パシュトゥーン人の優勢なカンダハールから、タジク人が優勢なカブールに移転された。これも、テュルク系集団やパシュトゥーン人のような遊牧軍事勢力が都市内と都市外近郊を移動しつつ軍事と政治の中枢を独占し、文書行政事務は、タージーク勢力が、その拠点都市の行政機関に居を置いたり、移動する宮廷に随伴して担当するという、中世から近世にかけての中央アジアの政治・行政状況の一般形態と共通した現象と見ることもできるし、王権中枢勢力とある意味対等な側面を有する他のパシュトゥーン人諸集団は、必ずしも王権中枢を構成するパシュトゥーン系勢力にとって安定的に忠誠を期待できる安全な存在ではなく、王権に忠誠を誓う官僚集団を輩出するタージーク勢力の方が王権中枢のパシュトゥーン系勢力にとっては信頼が置けたという側面も考慮できる。


ウラ写メ交換掲示板
■18歳以上「入口」■

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen