スキタイ人
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スキティアはこの項目へ転送されています。小惑星についてはスキティア (小惑星)をご覧ください。スキタイ騎馬像・紀元前300年頃・パジリク古墳より

スキタイ(Scythae, Skythai, : Σκ?θαι)は紀元前8世紀?紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた世界最古の遊牧騎馬民族国家。スキタイはギリシアの歴史家による呼称で、英語ではスキティアScythiaとも言う。言語ヘロドトスの記録からインド・イラン語派と考えられているが詳細は不明である。しかも遊牧スキタイ人と農耕スキタイ人、王族スキタイ人の三種類のスキタイ人が居たとされている。西シベリアからカスピ海黒海地方にまで居住し、ヘロドトスによればシベリアやウクライナの森林地帯から西・南方の草原と農耕地帯を結ぶ毛皮の道が存在し、スキタイ人はそこで毛皮の交易に従事していた。有名なシベリア・コレクションやイシク古墳・パジリク古墳から出土した黄金製の美術工芸品は、アッシリア・ルリスタンの東方古代様式、ついでアケメネス朝ペルシアのイラン様式の意匠を帯びる。その動物意匠はスキタイと交易したギリシアの職人がスキタイ人の好みをうけて創造したもので、東方騎馬遊牧民匈奴をはじめとした北方遊牧民の広く継承するところとなった。これらの文化は、総じてスキト・シベリア文化と呼ばれている。
目次

1 起源とその歴史

2 聖書・ホメロス・ヘロドトスの記述

3 考古学の成果

4 中世東ローマ帝国における「スキタイ人」

5 関連項目

6 外部リンク

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起源とその歴史秘儀の杯に描かれたスキタイ戦士(クル・オバ遺跡より)

元々は南ウクライナ平原ではなく、カザフ草原のアラル海北岸の出身とも言われている。

紀元前9世紀モンゴル高原に出現する鹿の文様が施された「鹿石」がスキタイの起源と関係があるとも。文化の中心はクバン河流域。

紀元前8世紀カスピ海北岸のカスピ族、黒海北岸に居たキンメリア人を南方に駆逐する形でコーカサスから中東に進入し、アッシリア王サルゴン2世はこれを阻止しようとした。 その後アッシリアと姻戚関係を結びこれを援助してメディアと戦い、前630年頃ニネヴェを解放。しかし、アッシリアが弱体化するにつれその領土を侵すようになる。

前645年?前617年にシリアパレスチナにも侵入。プサンメティコス1世の買収により、エジプトへの侵入は避けられた。

前514年頃、ペルシア帝国ダレイオス1世はスキタイ遠征を企てて失敗している(焦土作戦により撤退)。前5世紀の前半までに、中部ヨーロッパのラウジッツ文化はスキタイ人の侵入によって崩壊した。

前4・5世紀には黒海北岸のオルビア、パニティカパイオンやアゾフ海沿岸の古代ギリシア人の植民都市と密接な関係を持ち、ギリシア植民都市とは穀物・家畜・魚を輸出して、ワイン・オリーブ油・装飾陶器等を輸入していたとされる。とは言え、民族としては少数でその地に根付くこともなく、近隣諸国の略奪侵攻に終始し奢侈品を嗜好した。

紀元前3世紀サルマタイ人の圧力により衰退、しかしその頃には騎馬民族としての属性、勢力を失っていた。生き残った者たちは、ドナウ川流域やクリミア半島に逃げた。

紀元前1世紀頃よりクリミア半島に新たにネアポリス(現在のシンフェロポリ)という名称の都市を建設したとされるが東ゴート人によって撃ち滅ぼされた。その後のスキタイ人の行く末は杳として知られていない。なお現在も真実の明らかになっていない農耕系スキタイ人は、遊牧系スキタイ人ではなく、スラヴ系スキタイ人ではないかと推測されている。


聖書・ホメロス・ヘロドトスの記述スキタイの貴族の胸飾り(紀元前4世紀、南ウクライナ、トヴスタ・モフィーラ墳丘)

聖書にはスクテヤ人の名で登場する。エレミヤ記47のペリシテ人への忠告(「北から水が湧き上がり、川となって押し寄せ…」)を、このスキタイ人の侵入によって説明する説がある。イスラエルの都市ベテ・シェアン(ベト・シェアン)は、士師記1:27では「スキタイ人の町」と呼ばれ、ギリシア語でスキトポリスという。

スキタイ人自身はギリシアイランなどから文化を取り入れ、特にギリシャ神話に造詣が深く、ギリシア人との関わりも深い。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki