ジョン・スティーヴンズ・コーザイン(Jon Stevens Corzine, 1947年1月1日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。民主党に所属し、2001年から2006年まで連邦議会の上院議員を務め、2006年からニュージャージー州知事を務めている。
目次
1 青年期
2 結婚と離婚
3 実業家
4 政界入り
5 連邦議会の上院議員
6 州知事選挙
7 州知事
7.1 業績
8 選挙結果
9 参考文献
10 外部リンク
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1947年、コーザインはイリノイ州中部で生まれ、同州テーラーヴィル近郊のの小規模な自営農場で成長した。高校を卒業後はイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校へと進学し、学部課程を修了するとファイ・デルタ・シータの会員となり、1969年に大学を卒業した。コーザインは大学在学中にアメリカ海兵隊に入隊し、1975年まで予備役を務め、最終的に軍曹まで昇格した。コーザインはイリノイ大学を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で経済学の博士号を取得する計画でいたが、1970年にベトナム戦争の現役軍務に召集されたため、コーザインはその計画を諦めた。その後1971年、予備役に戻ったコーザインはシカゴ大学経営学大学院へと進み、1973年に経営学修士を取得した。
コーザインは1969年に高校時代の恋人ジョアン・ドウアティと結婚し、3人の子(ジェニファー、ジョシュ、ジェフリー)を育てた。コーザインはジョアンと2002年から別居生活を送り、2003年11月に離婚した。2005年にコーザインがニュージャージー州知事選挙への出馬を表明したとき、ジョアンはニューヨーク・タイムズ紙に対して「ジョンが家族を落胆させたように、ニュージャージーの州民も落胆させるでしょう」と述べ、同選挙で対立候補となったダグラス・フレスターはこのフレーズを選挙活動に使用した。だがその後フレスターは、個人のプライバシーに関わる事柄を取り上げたとして多くの批判を受けた。
コーザインの実業家としての第一歩は、シカゴのコンチネンタル・イリノイ国法銀行で始まった。コーザインはコンチネンタル・イリノイ国法銀行で契約部で業務を学んだ後、オハイオ州コロンブスの地方銀行バンク・ワンへ移った。コーザインは家族をニュージャージー州へと移住させ、1975年までバンク・ワンに勤めた。1975年からは証券会社ゴールドマン・サックス社の債権トレーダーとして勤め、1994年に同社の会長兼最高経営責任者に就任した。コーザインは同社を個人規模の取引銀行から世界的な証券取引銀行へと引き上げ、1997年にはアメリカのタイム誌から、影響力のある世界の経営者トップ50の1人に選出された。
1999年1月、コーザインはゴールドマン・サックス社を離れ、翌2000年にニュージャージー州から連邦議会の上院議員選挙に出馬した。2000年11月、コーザインは共和党のロバート・フランクに小差で競り勝ち、2001年1月に上院議員として就任宣誓を行った。コーザインはこの選挙において総額6280万2999ドルを費やした。これはそれまでの合衆国の上院議員選挙の歴史において、最も高額な選挙費用であった。そのうち3500万ドル以上は民主党の予備選挙で使用され、ニュージャージー州の元知事ジェイムズ・フロリオに勝利した。
コーザインは連邦議会において上院銀行住宅都市委員会、上院情報特別委員会、上院予算委員会、上院エネルギー天然資源委員会に参加し、企業の不正会計を厳格に取り締まるサーベンス・オクスリー法の作成に当たった。また401kによる有価証券明細書の危険を最小化する改革案を支持した。
コーザインは2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した際、財政的な復興支援を行い、犠牲となった外国人居住者に市民権を与える活動を行った。コーザインはアムトラックへの補助金の廃止、人種による取締まりの差別の禁止、より厳しい銃規制を支持した。またサム・ブラウンバックとともにスーダンに対する現行の外交・経済制裁を拡大するダルフール説明責任法を主唱し、ダルフール地域での大量虐殺に対処するための枠組みを構築した。コーザインはイラク戦争に反対する23人の上院議員のうちの1人でもあった。