“ジョー”ジョセフ・パトリック・ケネディ(Joseph Patrick "Joe" Kennedy, Sr.、1888年9月6日 - 1969年11月18日)は、アメリカ合衆国の実業家・政治家。
「プロテスタントでなければ政治家になってはいけない」という当時のアメリカ国内の暗黙の掟を初めて破ったカトリックの政治家として、そして第35代大統領ジョン・F・ケネディと同政権下の司法長官ロバート・ケネディの父として知られる。
一方でマフィアとの関係について度々取り沙汰される人物である。
目次
1 生涯
2 暗黒街との関係
2.1 密売酒
2.2 ギャンブルと愛人
3 脚注
4 関連項目
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ジョセフはボストンでパトリック・J・ケネディの子として生まれた。パトリックは成功した実業家でアイルランド系カトリックの共同体の指導者だった。ジョセフはアイルランド系カトリックが彼ら自身をヤンキーの排除の犠牲者であると看做す非常に党派的な環境で育った。パトリックやその係累も多くが民主党で活動した。パトリックの家庭は酒類販売業での成功と地方政治上での有力な役目などで繁栄し快適なものだった。ボストンの名門公立高校、ボストン・ラテン・スクールでのジョセフは平均以下の成績だったが、学級委員長の選挙に勝ったり、学校の野球クラブでのプレーなどでクラスの人気者だった。
1932年、フランクリン・ルーズベルトの政治資金を集め政界に進出する。1934年、当時の証券業界に蔓延していた多数の不正への対策として設立された証券取引委員会の初代委員長に任命される。後述するように、ジョセフ自身がインサイダー取引など数々の手口を駆使して大富豪に成り上がった人物であったため、この人事には反発が強かった。この人事についてフランクリンは「オオカミを捕らえるためにオオカミを使う。彼なら取引のからくりを何でも知っている」と発言したという[1]。1938年にはイギリス大使に任命される[2]
しかしその後、ナチスへの宥和政策を支持したことにより、辞任に追い込まれて政治生命を絶たれる。
ジョセフ自身は将来自分は大統領になれるものだと思っていた。そのため、自分の果たせなかった大統領の夢を息子達に託した。彼らに対する競争意識を植え付ける英才教育は凄まじく、「どんな事があっても、どんなを手を使ってでも、我々は勝たねばならない。そして、おまえ等は大統領を目指さなければならない。」というのが口癖であったことは、現在でも語り草になっている。ただし障害のある長女に対し、大統領を目指す上で弊害になるとしてロボトミー手術を施して施設に隔離し、その存在を秘した事は後に批判された。
最初は株取引などで財産を成したビジネスマンだったが、禁酒法時代には酒類の密売にもかかわり、マフィアと関係を持つことになる。1920年代前半にマサチューセッツ州の海岸では酒を積んだボートを待つジョセフの姿が目撃されている。禁酒法時代に酒の密売をしていたことは生涯通じての弱みとなる。その後、禁酒法が廃止されると高級ウィスキーの輸入業者にもなった。
禁酒法廃止後も、暗黒街との関係は続いた。ジョセフはギャンブル好きで1日に1万ドル使うときもあった。フロリダで経営していた競馬場に行くと、夜には愛人を連れてナイトクラブに行った。しかし、マスコミを金で買収していたため世間での印象は清潔そのものだった。家族思いの父親、財界の名士、将来の大統領候補とまで言われていた。
息子たちがマフィアを厳しく追求したとき、組合とマフィアが息子たちの政治生命を危機に陥れるのではないかと恐れて、ロバートに主席顧問の職を退くよう忠告していた。
脚注^ ⇒産経抄2008年9月12日
^ ルーズベルトは野心的なジョセフを恐れており、これは一種の閑職であった[要出典]。
関連項目
アメリカ合衆国の政治
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更新日時:2008年10月29日(水)01:15
取得日時:2008/11/22 16:23