ジェームズ・モーリス・ギャビン(James Maurice Gavin、 1907年3月22日?1990年2月23日)はアメリカ陸軍の軍人。最終階級は中将。第二次世界大戦において将官に昇進し、第82空挺師団長に就任した後も常に第一線の兵士達とともに空挺作戦でパラシュート降下を行ったため、「ジャンピング・ジム」、「ジャンピング・ジェネラル」と呼ばれた。
また、伝統的に士官が所持する拳銃を持たず、一般兵士と同じM1ガーランドライフルを装備するのを好むことが内部で広く知られていた。
目次
1 生涯
1.1 幼少期
1.2 アメリカ陸軍士官への道
1.3 下積み時代
1.4 第二次世界大戦
1.4.1 空挺師団の創設
1.4.2 ハスキー作戦
1.4.3 ノルマンディー上陸作戦
1.4.4 マーケット・ガーデン作戦
1.5 第二次世界大戦後
2 映画
3 こぼれ話
4 関連項目
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ギャビンは、1907年3月22日にニューヨークのブルックリンでライアン夫妻の子として生まれた。この時、親が役所に届け出た名前は、ジェームズ・ナリー・ライアンであった。
2歳の頃、ブルックリンの慈悲孤児院の女子修道会に預けられ、1909年にギャビン夫妻に引き取られるまでここで過ごした。ギャビンの養父はよく働く炭鉱夫であったが、家計は苦しく、養父が家族を養うのを手伝うため、12歳で学校を辞めて働き始めた。
養父母がギャビンに炭鉱夫になることを望んでいることを知ったギャビンは、限られた機会しかない将来に見切りをつけ、1924年3月の17歳の誕生日に家を飛び出して夜行列車でニューヨークへ行き、仕事を探し始めた。この時、ギャビンは行方不明者として警察に通報されないよう、家に電報を送っている。
1924年3月の終わりにアメリカ陸軍の徴募官と話をしたギャビンは、アメリカ陸軍へ入隊することを決意した。しかし、18歳に満たない志願者は親の同意書が必要であり、養父母が決して承諾しないであろうことを見越していたギャビンは徴募官に孤児であると告げ、他の孤児2人とともにその徴募官が後見人になることでアメリカ陸軍に一兵卒として入隊することができた。
1924年4月1日、ギャビンは宣誓式を終え、フォートシャーマンの砲兵隊で基礎訓練が行なわれ、155ミリ砲の要員を務めた後、パナマに配属された。パナマは快適には程遠い勤務地であったが、良い上官に恵まれている。
パナマ勤務の頃のギャビンは、空いた時間を図書館において本を読んで過ごしていた。この時ギャビンは、家族を養うためとはいえ、12歳で学校を辞めたことによる教育の欠如を痛烈に感じていた。また、ギャビンは自身の好奇心を満たすために勤務地の近くで小旅行を行うこともあり、この姿を見た上官のウィリアムズ曹長は、その可能性を見込んでギャビンを副官にし、入隊から6か月後には伍長に昇進した。
その後、ギャビンは上官のウィリアムズ曹長の助言もあって、ウェストポイントに入学することを決意し、健康診断に合格、基礎教育が不足していたギャビンは1924年9月1日から近所の学校で準備のための教育を受け、さらに上官であったバーシ・ブラック中尉に家庭教師を依頼し、代数学、幾何学、英語及び歴史について学んだ。そして予備試験に合格し、バーシ・ブラック中尉の助けもあってウェストポイントの受験資格を得た。
1925年の夏、ギャビンはウェストポイントに合格した。この時、ギャビンは18歳であり、経験年数の不足を隠すため、願書に21歳と書いている。
ウェストポイントでのギャビンは、講義を理解できる程度の基礎教育を受けていなかったことから、毎朝4時30分に起床してバスルーム等で教本を読む等の努力をしている。このような困難にも関わらず、ギャビンは4年間の士官の教育課程を終え、1929年にウェストポイントを卒業し、少尉に任官した。
また、少尉に任官した直後の1929年9月5日にイルマという女性と結婚している。
1944年6月6日に実施されたノルマンディー上陸作戦では、攻撃の先鋒となる夜間の空挺降下に第82空挺師団副師団長として参加し、配下の部隊は、夜闇に紛れてドイツ軍の降下猟兵師団長を殺害し、早朝にはサン・メール・エグリーズの街を解放している。