シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。
目次
1 初期シュメール
2 ウバイド文明
3 行政
4 農業と狩猟
5 建築
6 美術と工芸
7 文化
8 経済
9 医術
10 軍事
11 宗教
12 技術
13 没落
14 遺産
15 おもなシュメールの都市国家
16 関連項目
17 外部へのリンク
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「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人へと知覚された関係を示す。シュメール人自身は自らを「黒い頭の人々」(saa-gi-ga)と呼び、その土地を「キエンギ」(Ki-en-gi、「君主たちの地」の意)と呼んでいた。アッカド語の「シュメール」はおそらくこの名前を方言で表したものであろう。彼らが「カンガ」あるいは「キエンガ」と自称する言語学的グループの異称のままであった。
シュメールの言語、文化、おそらく外見は周囲のセム系の民族とは異なっていた。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自をもつとの観点にいたっている。他の学者はシュメール人とはたんに言語学的な概念であり、シュメール語についてのみ適応され、民族集団としてのシュメール人を分離して示すことはできないということを示唆している。その場合、シュメール人は正確には「言語学的シュメール人」ないし「カンガ人」と呼ばれるべきであろう。スバル人による異称は、メソポタミアやレバントにおけるセム語を話すさまざまな言語グループと結びついていて、シュメール語の言語的基盤とは関係がなかった。
一部の学者は、カンガ人(シュメール人)が東方、特にイラン高原(あるいはおそらく船でインダス川峡谷)から「シナル平原」(シュメール)へ移住してきたということ、またとりわけエラム語やドラヴィダ語との言語学的結びつきを考慮している。しかし言語学においてより一般的に受け入れられている説では、シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。
カンガ人が到着する時期は、彼らの文字が登場する時期と一致するものと思われ、紀元前3100年頃のウバイド期の先カンガ=シュメール文明(先-言語学的シュメール文明)の洪水による荒廃後にさかのぼる。この小規模の農業をもつ組織化されたウバイド文明は、ザグロス高原北西部付近に文化的根拠地をもち、紀元前5千年紀にはこの地域(後のシュメール)に存在していたと見られる。こんにちの私たちは、これらウバイド人(先-言語学的シュメール人)のことをほとんど知らないが、彼らが後のこの地域のすべての民族と同様にセム語を話したと推測している。シュメール語に記録された地域の諸伝統に従えば、彼らは最初のキシュの住民であったかも知れず、彼ら自身の年代記は彼らを最初のウルク期にあてはめる。最も初期のヘブライ人の宗教テキストは、ニムロデを継承するアッシュールの神話の中でのハム族の影響からセム族の影響までの推移を証明する。
ともかく言語学的シュメール人の出現時期は、原アフロ・アジア語族の支配再開後における、メソポタミアへの異邦人の影響の時期として見られるであろう。インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)が西方からイラン高原へ膨張してきたことは、そこにいた膠着語を話す人々を中央アジアやインド亜大陸へ押しやって彼らのメソポタミアとのどんなつながりをも断ち切り、彼らの残された親類たちは印欧語族に同化されることになった。「カンガ」や「スバル」の名は、6世紀のアヴァール人の膨張に至るまで中央アジアに残存したと思われる。
シュメール人はさまざまな都市国家に居住し、それぞれジッグラトと呼ばれる神殿の周囲に集住していた。彼らは神がそれぞれの都市を所有すると信じていた。主だった大きな都市は、エリドゥ・キシュ・ウルク・ウルなどである。