シガチョフ事件(―じけん)とは、ドミトリー・シガチョフ(Дмитрий Сигачев)を首班とするオウム真理教のロシア人信者による同教団教祖麻原彰晃(松本智津夫)奪還を目的とした対日テロ未遂事件。日本政府に対する脅迫のため、日本各地での爆弾テロ等が計画されていた。日露当局者の協力により未遂に終わる。
目次
1 ロシアにおけるオウム真理教
2 対日テロ計画
2.1 テロ・グループの誕生
2.2 資金調達と爆弾製造
2.3 シガチョフ・チェイス
2.4 ヴィフリ?アンチテロル作戦
3 裁判
4 関連項目
5 外部リンク
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1991年、オウム真理教教祖麻原彰晃が、ロシアを初訪問した。モスクワにおいて麻原は、当時ロシア副大統領だったアレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイやヴィクトル・チェルノムイルジン、ユーリ・ルシコフ等ロシア政界の上層部と接触。翌年には後に安全保障会議書記となるオレグ・ロボフが来日し麻原から資金援助の申し出を受けるなど、オウムのロシア進出に拍車がかかった。
ロシアの声や「マヤーク」(Маяк)によるラジオ放送が流され、「キーレーン」というオーケストラを組織。日本からロシアの特殊部隊施設での射撃訓練ツアーがオウム関連の旅行会社によって主催されたり、他にもロシアからヘリコプターなどの軍事物資が輸入されている。更に麻原は、ロシアに数ヶ所の支部を開設。ソ連の崩壊後に精神的支柱が揺らいでいた当時、ロシアの多くの若者がオウム真理教に惹きつけられた。その中には、ドミトリー・シガチョフもいた。
1993年までに、ロシアでは、かなり強力な組織が形成された。その構成員は、説法集を読むことで修行していたが、その中には、軍事科学を研究する個別の戦闘グループも存在した。同年、麻原は再びロシアを訪問した。この時、シガチョフは、麻原によって個人的にサマナ(出家修行者)に昇格させられた。
しかし、地下鉄サリン事件は、教団とその信者が危険であることを全世界に示した。日本では、麻原彰晃が逮捕され、多くの国でこの運動は禁止された。ロシアでも、1995年4月18日付モスクワ・オスタンキノ地区自治体間裁判所の決定により、オウム真理教は禁止された。しかし、教団が禁止されたにも拘らず、その多くの構成員は、教祖を信仰し続けた。彼らは、互いに交流し、様々な計画が生み出された。
麻原逮捕後、シガチョフには、麻原彰晃がいなければ、オウムの思想、そして全人類が早期に滅亡するとの妄想が生まれた。この妄想は徐々に麻原解放の構想へと変わり、彼は自分の見解をインターネットのサイトで詳細に叙述した。1999年初め、2人のオウム信者、ボリス・トゥペイコ(Борис Тупейко)とアレクサンドル・シェフチェンコ(Александр Шевченко)が彼の構想に加わった。こうして、麻原を解放し、彼をロシアに連れ出す任務を帯びたグループが誕生した。
このためには、金と武器が必要とされた。当初、彼らは、知人から1万2千ドルを借り受けた。当初、トゥペイコは、TT拳銃(いわゆるトカレフ拳銃)とカラシニコフAK47S自動小銃、およびその弾倉2個以上と弾薬を調達した。しばらく後に、もう1挺のTT拳銃が調達された。武器の点検のため、グループ構成員は、郊外に出て、銃を試射した。
電気工学に明るく、破壊工作員としてグループに加わったシェフチェンコは、かなり高度な電気信管を設計した。これは、携帯電話を使った遠隔操作で起爆させるものであり、携帯電話の電波の通じるところなら、世界のどこからでも信号を送ることができたということになる。
その後、シガチョフは、資金不足を実感し、インターネットを通して、日本の信者と連絡することに決めた。シガチョフは、ウィーンでキーレーンの元団長、石井紳一郎(ウルヴェーラ・カッサパ)と会見し、3万ドルを受け取り、モスクワに戻った。後には、更に9万ドルの援助を受けている。
シガチョフは、日本への交通の便から、ウラジオストクをテロ準備の拠点に選び、2ヶ所のアパートを借りた。ところが、ここで爆弾製造担当のシェフチェンコがメンバーから外れた。4基の起爆装置が残されていたが、操作が複雑で、シェフチェンコ以外には取り扱えなかった。シガチョフは、インターネットを通して、遠隔で電気パルスを発生できる電子装置の製造を注文した。シガチョフの注文を見た専門家は、それが爆弾製造用であることを見抜き、知り合いの沿海地方内務局の捜査官に通報した。
民警職員は、2ヵ所のアパートの住所を直ちに特定し踏み込んだが、アパートは平穏そのもので異常はなく、シガチョフは必要な書類を全て揃えていた。シガチョフは、用心のため、新しいアパートに転居し、全ての武器を運び出した。民警職員の家宅捜索は成果を収めなかったが、ウラジオストクへのオウム真理教信者出現の知らせは、連邦保安庁(FSB)沿海地方局の耳にも入り、グループ構成員、その連絡及び意図の特定に乗り出した。
その間、シガチョフは、計画を立案し続け、インターネットを通してウラジオストク在住の2人のオウム信者、ヴォロノフとユルチュクと接触した。両者は日本のタイヤを売るビジネスに従事していた。シガチョフは、両者に計画を打ち明け、2人ともグループに加わった。
2月?3月、グループはアパートを変え、シガチョフはウボレヴィッチ通りに、残りのメンバーはトゥハチェフスカヤ通りのアパートに居住した。間もなく、アパートの近くのガレージ協同組合から倉庫を借り、調達した武器類を格納した。
シガチョフは、現地偵察のために日本に向かった。青森市、新潟市において、爆弾の設置に適した人口密集地、休憩場所、爆弾の保管場所を選定し、その写真を撮影した。