ザ・ナターシャー・セブンは、1970年代から1980年代前半にかけて活躍したフォークバンド。ブルーグラスやアメリカのトラディショナルフォーク、日本の民謡の他、世界各国の伝承曲をレパートリーとしていた。宵々山コンサートの開催や、107 SONG BOOKの発行を行う。メンバーは、高石ともや(友也)、城田じゅんじ(純二)、坂庭しょうご(省悟)、木田たかすけ(高介)の4名が有名。
バンド名の表記は、時期によって、「高石ともや」の先頭への付記の有無、「ナターシャー」と「ナターシャ」の違い、がある。当記事では、最も活動的であった時期の表記である「ザ・ナターシャー・セブン」とした。英語表記は THE NATARSHAR SEVEN である。当記事中は「ナターシャー」と略した。
目次
1 活動の記録
1.1 結成
1.2 最盛期
1.3 衰退期
1.4 期間限定リユニオンと終局
1.5 メンバーの変遷
2 ザ・ナターシャー・セブンの音楽性
2.1 107 SONG BOOK
3 ディスコグラフィ
3.1 シングル
3.2 アルバム
3.2.1 フィールド・フォーク
3.2.2 いこまいか。椛の湖ピクニック
3.2.3 宵々山コンサート
3.2.4 宵々山コンサート20回を記念して
3.2.5 107 SONG BOOK
4 関連項目
5 外部リンク
//
高石と城田の出会いがバンド結成のきっかけ。その当時、京都産業大学3回生であった城田は、既にブルーグラスのバンジョー奏者として活動を始めていた。一方、高石は、自身の音楽活動の方向性を求め、フォークソングの原点を探し求めていた頃であった。二人は意気投合し活動を共にし始める。二人を引き合わせたのはフィドル奏者の井芹誠であった。
1971年1月、高石、城田、井芹、北村謙、箕岡修の5名で「バック・ステップ・カントリーバンド」( Back Step Country Band )を編成。 1971年2月28日には、「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」と改名。バンド名の由来は高石が住んでいた福井県の名田庄村(なたしょう、現おおい町名田庄)をもじったものであり、「セブン」は語呂合わせに付けた。命名は、七人の会社長の榊原詩朗による。榊原がマネージャーとプロデュースを行ない、活動を開始した。
バンド結成以来、メンバーの入れ替えが頻繁にあったが、1975年から1980年初頭まで続いた、高石、城田、坂庭、木田の4名での活動が、最も安定的で活動的であった。この頃は「ザ・ナターシャー・セブン」と称していた。
1973年から始めた宵々山コンサートは毎年開催し、京都の夏の恒例行事となる。全国各地でもコンサートや野外フェスティバルを開催。1976年、107 SONG BOOKを発行し、レコード化する。これはレコード大賞企画賞を受賞した。
1977年に自切俳人とヒューマンズーに、杉田二郎グループと共に参加。普段のスタイルとは違う、コミカルな楽曲と演奏を行った。これにダウン・タウン・ブギウギ・バンドを加えてJ・D・S・Nと称することもあった。J-自切俳人、S-杉田二郎、D-ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、N-ナターシャーの意味。なお、自切俳人(じきるはいど)とは北山修の変名。
しかし、1980年2月に木田が脱退。そして間もない1980年5月に交通事故で死去。また1982年2月には、榊原がホテルニュージャパンの火災事故で死去した。バンドを支えた2人を相次いで失ったこの頃を境に、意見の対立が顕在化し徐々にまとまりを失っていく。1983年には城田が脱退。1984年の宵々山コンサートでは、坂庭が自分のソロコーナーにおいて、再三再四、城田にステージに上がるように呼びかけたが(この時、城田が実際に会場に来ていたかどうかは不明)、結局、城田がステージに上がることはなかった。また、高石は、坂庭が城田に呼びかけているとき、ステージには現れなかった。この直後に、坂庭、進藤が脱退。その後、兼松ゆたか、藤木頌子を加えて、再スタートを切ったのだが、結局、翌年の1985年、活動を停止した。そして、宵々山コンサート自体も、同年をもって、終了した(1994年に再開)。ちなみに、1985年の宵々山コンサートはナターシャーの活動停止後だったので、ナターシャーは出演していない。