ザ・グレート・カブキ
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ザ・グレート・カブキ
プロフィール
リングネームザ・グレート・カブキ
高千穂明久
ヨシノサト
タイガーマスク
デビル・サト
本名米良明久
ニックネーム東洋の神秘
身長181cm
体重110kg
誕生日1948年9月8日(60歳)
出身地 日本宮崎県延岡市
スポーツ歴水泳
トレーナー力道山
ジャイアント馬場
デビュー1964年10月31日
引退1998年9月7日
 ・編・歴 

米良 明久(めら あきひさ、1948年9月8日 - )は、日本プロレスラーレフェリー。現在、プロレスラーとしてはセミリタイア状態。

宮崎県延岡市出身。レスラーとしてのキャリアにおいて、ザ・グレート・カブキのリングネームアメリカでもその名が知られたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ。ペイントレスラーの元祖。
目次

1 経歴

2 リングネーム

3 得意技・ファイトスタイル

4 タイトル履歴

5 外部リンク

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経歴

生まれは宮崎県だが、中学2年のとき愛知県知立市に移っている。学生時代は水泳選手として活躍した。1964年日本プロレスに入団。同年10月31日山本小鉄戦で高千穂 明久のリングネーム(出身地に因んで豊登が「高千穂」と名付けた)でプロレスデビュー。1970年からアメリカ遠征に出るも(このときリングネームを「デビル・サト」と名乗る。高千穂は2代目で初代は芳の里)、日本プロレス崩壊の危機に際して1972年に帰国。1973年ジョニー・バレンタインを破りUNヘビー級王座獲得。

日本プロレスが崩壊した1973年全日本プロレスへ移籍。1977年、「世界オープンタッグ選手権」に高千穂明久として出場した。その後オーストラリア、アメリカと海外遠征を多く経験する。

元々は正統派で堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年テキサス州ダラスにおいてアメリカ人のマネージャー、ゲーリー・ハートのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにした、東洋系を前面に押し出したペイントレスラーにギミック変更。同時にザ・グレート・カブキのリングネームを用いだす。なお、このリングネームを名乗るのは米良で2人目であったが、後の米良の活躍によりこのリングネームは米良の代名詞となる。

ヌンチャクを操り、毒霧を吹く東洋系のヒールキャラクターが受けて、アメリカ各地の団体で活躍。1983年ジャイアント馬場から帰国命令が出たため、全日本に凱旋帰国。帰国後もカブキのギミックのまま全日本プロレスに登場し、アメリカでの活躍もあって人気を得る。専門誌だけでなく一般誌にもとりあげられ、子供向けの本にまで登場し人気は馬場やジャンボ鶴田に引けを取らなかったものの、リング上の格は2人の後に甘んじ、ギャラの面においてもカブキにとっては決して満足のいく扱いではなかったという。後にムック本のインタビューで、カブキの凱旋帰国シリーズがTV放映権料を除く興行収益で全日本設立以来初の黒字(馬場が欠場していたのにも関わらず)になったり、一般マスコミの取り上げ方やTV出演依頼が殺到したため、馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬を買ってしまった事や、映画「カランバ」のプロモーション(映画CMを真似て、腕にロープを巻き、ジープで引っ張ってどこまで耐えられるか、というイベント)についても、配給会社がカブキを名指しして依頼が来たために、出演について直前までもめた事が明かされている。

その後、ダラス地区WCWAと全日本を行き来する形となっていたが、長州力ジャパンプロレスの参戦や、WCWAの新日本プロレスとの提携もあって扱いはさらに悪くなり、一時期は造反してテリー・ゴディとの共闘で外国人サイド扱いを受けるが、ギャラはゴディに比べて格段に低かったと言われる。そして長州らの新日復帰前後に全日正規軍に戻される形となり、天龍同盟との試合で熱い闘いを繰り広げ、再度脚光を浴びる。

1990年7月30日に全日本を退団。この前日には鶴田と組んで世界タッグ王座を獲得している。

全日本退団後は、天龍源一郎らが旗揚げしたSWSに入団。選手兼ブッカーとして活動する。SWS崩壊後はWARに所属するも数多くの団体に登場するようになる。新日本プロレスにも登場するようになり、平成維震軍の一員となった。

新日本に参戦中の1993年グレート・ムタとの「親子対決」(IWGPヘビー級選手権試合)が実現した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki