サラゴサ
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Zaragoza
エブロ川とピラール聖母教会
アラゴン州
サラゴサ県
面積1,059km2
標高199m
人口649,181人(2006年)、第5位
人口密度613人/km2
画像:Zaragoza, Spain location.png
41°39'N 0°52'W

サラゴサ(Zaragoza)は、スペイン北東部の都市。アラゴン州の州都で、サラゴサ県の県都。人口は約65万人でスペイン第5位。スペイン北東部を流れるエブロ川の中流に位置し、中世にアラゴン王国の都が置かれた。
目次

1 歴史

2 人口

3 経済

4 観光

5 交通

6 教育

7 スポーツ

8 姉妹都市

9 外部リンク

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歴史ローマ時代の城壁

古代ローマ時代に植民市としてアウグストゥスにより「カエサラウグスタ」という名で建設された。紀元2世紀には最盛期を迎え、ローマ浴場や劇場などの公共施設が建てられ、今に残されている。3世紀にはローマの「3世紀の危機」によって、城壁が建設される代わりに公共施設は衰えた。

409年ごろからスエビ族西ゴート族などのゲルマン人がイベリア半島に侵入を始めた。サラゴサはその頑丈な城壁によって持ちこたえたが、472年、西ゴートの王エウリック配下の部隊によって陥落した。7世紀のサラゴサは多数の教会知識人を輩出し、セビリャトレドと並んで西ゴート王国の文化の中心地となった。

714年以降、イスラム勢力(ウマイヤ朝、のちに後ウマイヤ朝)の支配下に入り、ピレネー山脈のキリスト教諸国との前線となった。10世紀半ばには、バヌー・カースィー家( ⇒en)がサラゴサを中心として独立した王国を築き、パンプローナのイニゴ・アリスタ( ⇒en)と血縁関係を結んだ。11世紀に後ウマイヤ朝が内乱で崩壊すると、タイファ諸国の一つであるサラゴサ王国( ⇒es)が成立し、最盛期には現在のアリカンテタラゴナまで領土を広げた。アルハフェリア宮殿が建てられたのはこの頃である。半島戦争でのサラゴサ攻囲

1110年にサラゴサ王国はムラービト朝に征服された。1118年にサラゴサはアラゴン王国のアルフォンソ1世に征服され、以降はアラゴン王国の首都となった。多くのイスラム教徒が立ち去ったために人口が減少し、フランスやナバラからの植民が行われた。

1591年、サラゴサでアラゴン騒乱( ⇒es)が起きた。フェリペ2世に訴追された元秘書官アントニオ・ペレス( ⇒es)が法制度の違うアラゴン王国に逃げ込み、裁判権を巡って対立が起きた。アラゴンの特権を守るために民衆が暴動を起こし、フェリペ2世は軍隊を派遣してこれを鎮圧し、市長を死刑にした。これにより、アラゴンの特権の一部が失われた。

ナポレオン軍の侵入に抵抗した半島戦争では、1808年から1809年にかけて2度にわたって攻囲された( ⇒en)。この攻囲から100年後の1908年にサラゴサで「スペイン・フランス博覧会」( ⇒en)が開かれ、さらに100年後の2008年サラゴサ万国博覧会が開かれる予定である。


人口

サラゴサにはアラゴン州の人口の約半分、サラゴサ県の人口の約4分の3が集中している。

1991年から2006年までのサラゴサの人口の推移
1991年1996年2001年2004年2005年2006年
594 394601 674610 976638 799647 373649 181


経済

1982年GM傘下のオペルの工場が近隣の町フィゲルエラスに建てられた。BalayやCafなどの工場もあり、経済の柱は農業から工業に移っている。

2008年に、「水と持続可能な開発」をテーマにしたサラゴサ万国博覧会(認定博)が行われる予定。日本のマスコミは2005年の愛知万博の次の国際博覧会は上海国際博覧会(2010年 登録博)としているが、厳密に言うとこれは誤りである(上海は次の「登録博」である)。


観光

ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂( ⇒en) - 紀元40年1月2日、この地でヤコブの前に聖母マリアが柱(ピラール)の上に立って現れたという伝説がある。


不朽の名作から
ケータイ小説(笑)まで

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki