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ノーベル賞受賞者
受賞年: 1969年
受賞部門: ノーベル文学賞
受賞理由:
サミュエル・ベケット(Samuel Beckett, 1906年4月13日 - 1989年12月22日)は、アイルランド出身のフランスの劇作家、小説家、詩人。不条理演劇を代表する作家の一人であり、小説においても20世紀の重要作家の一人とされる。ウジェーヌ・イヨネスコと同様に、20世紀フランスを代表する劇作家としても知られている。1969年にはノーベル文学賞を受賞している。
目次
1 経歴
1.1 戦前
1.2 戦中・戦後
2 作品論・作家論
3 作品
3.1 戯曲
3.2 小説
3.3 ラジオドラマ
3.4 評論・論文
4 関連項目
5 外部リンク
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1906年の4月13日、アイルランドのフォックスロックに住む裕福なユダヤ系の中流家庭の次男として誕生。イエス・キリストが磔刑を受けたとされる日だったため、これを忌避し戸籍上の誕生日は3月13日。
1923年から1927年にかけて、ダブリンのトリニティカレッジで、英語、フランス語、イタリア語などを学ぶ。その後1928年から2年ほどの間、パリの高等師範学校で教師の職を得て過ごす。ベケットはパリでジェイムズ・ジョイスと知り合い、深い影響を受けた。ベケットはジョイスの書く断片の口述筆記や複写なども手伝ったが、それらはジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)の中に含まれている。
1930年、トリニティカレッジの3年間の講師職を得て、ベケットはアイルランドに戻った。しかし2年も経たないうちに辞職し、著述業をしつつヨーロッパを転々とする。そして1937年、パリに定住した。
1938年1月、通りを歩いている最中に、見知らぬ売春斡旋者の男に突然刺されるという事件が発生した。ナイフは心臓をかすめたが、ベケットは自力で病院に駆け込んだ。意識を取り戻した時には、ジェイムズ・ジョイスが主治医と共におり、介抱の仕方を習っている最中だったという。のち、加害者は裁判でベケットに謝罪し、なぜそのようなことをしたのかわからないと語った。
入院中、訪問客の一人であったスザンヌ・デシェヴォー・ドュメニルと深い仲になり、交際を始めた。後年、スザンヌはベケットの仕事を助け、時にはジャーナリズムや批判者から守る役割もした。1961年に二人は結婚する。
1939年、第二次世界大戦が勃発。1940年にはナチス・ドイツがフランスに侵攻し、パリを占領した。
大戦中、ユダヤ系アイルランド人のベケットはフランスのレジスタンスグループに加入。ナチスに対する抵抗運動に参加する。しかしゲシュタポの捜査が身辺に迫り、友人が逮捕されたことを受けて小説家ナタリー・サロートの自宅の屋根裏に長期間かくまわれ、同じくゲシュタポから隠れていたサロートの父親と同居生活を過ごした。
その後パリを脱出。田園地帯を数ヶ月放浪の後、ヴォクリューズ県の小コミューンであるルシヨンに2年半もの間潜伏した。その期間、ベケットは小説『ワット』(1953年)を書いた。
戦後はパリに戻り、執筆活動を再開。50年代に入ると三部作の小説『モロイ』(1951年)、『マロウンは死ぬ』(1951年)、『名付けえぬもの』(1953年)を発表、20世紀文学における小説の革新において大きな足跡を標した。
1952年には、現代演劇に多大な影響を及ぼすことになる戯曲『ゴドーを待ちながら』を発表。彼自身は「三部作を書く苦闘の中での息抜き」として書いたと述べていたが、その新しさと普遍性によって彼の作品の中でもっとも著名なものとなる。同戯曲は翌年、ロジェ・ブランの演出によって、パリの小さな前衛演劇の劇場であるテアトル・ド・バビロン(Thetre de Babylone)で初演された。
1959年、ベケットは母校のトリニティ・カレッジより名誉博士号を授与された。1961年、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと共にフォルメントール賞を受賞。