コンモドゥス
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胸像(ルーヴル美術館所蔵)コンモドゥス胸像

コンモドゥス(Marcus Aurelius Commodus Antoninus、マルクス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニウス 161年8月31日 - 192年12月31日、在位期間180年 - 192年)は、ローマ皇帝である。マルクス・アウレリウスの子。しばしばローマ帝国史上最悪の皇帝のひとりとして言及され、「暴虐帝」とも呼ばれる。コンモドゥスの登極により、いわゆる五賢帝の時代は終わりを告げた。
目次

1 生涯

2 関連項目

3 注釈

4 外部リンク

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生涯

年老いた父と共同統治する形で177年に政権に就き、180年より皇帝となる。それまで約80年間に渡り、歴代のローマ 皇帝は血縁より優秀さを基準に皇帝に選んでいたため嫡子に帝位が継承されるのはドミティアヌス以来100年ぶりであった。

皇帝になった時コンモドゥスはまだ18歳であり、父が始めた北方のゲルマン民族との戦いは未だ継続中であったが彼はゲルマン民族に有利な講和条約を結ぶとさっさと敵地から軍を引き上げローマに凱旋した。これは父に従っていた古参の将軍らにとっては寝耳に水の出来事であり、更にコンモドゥスは凱旋のさい市民の見ている前で男色相手のサオテルスという従者とあだっぽいキスを繰り返し、一部の市民からは眉をひそめられた。とはいえ、大多数のローマ市民は新しく若い皇帝を期待し歓迎した。かくして期待を一心に集めたコンモドゥスであったが、その期待はやがて失望に変わる。政治は側近に任せきりで自身は夜になると街へ出かけ、また宮廷内に大勢の美男美女をはべらせながら酒を飲んで浮かれ騒ぐ日々が続いたと言われる。

その後、コンモドゥスは彼の治政に失望した人々により度々命を狙われることとなった。

一度目の皇帝暗殺計画は182年で、実姉ルキラが首謀者であり弟を殺害し夫ポンペイアヌスを即位させる計画であったが暗殺は失敗し、暗殺者のクインティアヌスとルキラは自殺を強要された。その後、コンモドゥスは公の場に姿を現さなくなり一切の用を近衛隊長官ペレンニスを通すよう命じた。再び放蕩生活に戻ったコンモドゥスは以前にも増して国政を顧みなくなった。

その頃、ハドリアヌスの長城をスコットランドの諸部族が乗り越え属州ブリタニアに侵攻した。軍が出動し184年に蛮族は撃退されたが、今度はブリタニアに駐留する兵士が給料の支払われないことを理由に反乱をおこした。千五百人余りの兵士がローマに押しかけ国政を取り仕切るペレンニスが皇帝を暗殺していると主張し、引き渡しを要求した。不安に襲われたコンモドゥスはペレンニスを彼らに引き渡し、ペレンニスはなぶり殺しにされてしまった。

ペレンニスが殺害されると、コンモドゥスは今度はクレアンデルという侍従に国務を一任した。クレアンデルは権力を笠にきて元老院議員や騎士に法外に高い賄賂で官職を売りさばく悪徳家臣で政治は再び乱れた。

187年3月、二度目の暗殺計画が発覚した。この時の扇動者はマテルヌスという元脱走兵で祭りの騒ぎに乗じてコンモドゥスを暗殺する計画であったが、事前に計画が漏れてマテルヌスは捕らえられ処刑された。この事件によりコンモドゥスはますます公の場に出ることを控えるようになり周囲を屈強な衛兵で囲ませた。

189年、首都ローマで一日二千人の死者を出す伝染病が発生し民衆の不安と怒りは実権を握るクレアンデルに向けられた。闘技場で戦車競技を見に集まった観客が暴動をおこし、ローマ南のクインテリウス荘に滞在する皇帝のもとに行進した。首都警備隊も民衆に加勢したため、鎮圧に向かった騎兵も撃退されてしまう。双方に死傷者が出たため恐ろしくなったコンモドゥスはクレアンデルを処刑させるよう命じた。クレアンデルは首を切られて、生首は串刺しにされた挙句晒され残りの遺体は市中を引き回された後に下水に捨てられたと言われる。

ようやく親政を始めたコンモドゥスであったが、既に度重なる暗殺未遂事件により彼は誇大妄想の兆候を見せており自身を、ギリシア神話英雄ヘラクレスと呼ぶよう命じ公の場にはライオンの毛皮をまとい棍棒を手にして登場した。更に皇帝自ら円形闘技場剣闘士試合に参加しに扮して[1]、1万2千人の剣闘士を殺害したという。そのやりかたも残虐そのもので、試合の相手が苦しみ這いずり回るのを楽しみながら弓矢で射殺したり、肥った相手の腹を切り裂いて内臓をえぐりだしたり、相手の目をくりぬいたりしたと言われる。

また、猛獣狩りの試合を催し自身も積極的に参加。虎、象、カバ、ライオンなど猛獣をヘラクレスの衣装で次々に倒し、ダチョウの首を右手に持ちながら見物する元老院議員が居る見物席に近づいた。戦慄する議員達にこれは「このダチョウを狩るように貴様らもいつでも殺すことができる」という威嚇であった。

ある都市では、市民の一人がコンモドゥスを敵意あるまなざしで見たという理由で、軍に市民を虐殺させた。190年ローマの半分が火事により消滅すると、再建したによって自らの栄光を現わす好機と捉えた彼は、再建された部分に自らの名を冠して「コローニア・コンモディアーナ」と命名した。また年の半分の月を自分にちなんだ名前に変えさせた。

192年12月、三度暗殺計画が練られた。首謀者は近衛隊長官ラエトゥス、侍従エクレクトゥス、皇帝の愛妾マルキア。大晦日の夜に夕食の席でマルキアがコンモドゥスの飲むワインに致死量の毒を混入させたが、解毒剤を常用していたコンモドゥスは無事であり、あわてた陰謀者らは次の手を打ち刺客を送って入浴中のコンモドゥスを殺害させた。コンモドゥスは必死に抵抗したが最終的に絞殺された。

彼の死後、元老院は記録抹殺刑を宣告したが、のちに皇帝セプティミウス・セウェルスが、アウレリウス家の好意を得ようとしてこの刑の適応を免除し、コンモドゥスの記録は回復され、またコンモドゥスはとして祀られた。

そんな時代ながら各属州、特に辺境防衛線では特に問題もなく機能し続けた。先帝マルクス・アウレリウスへの忠誠心の延長としてそれぞれが職務を全うし、そしてマルクスの時代の多事多難から各防衛線では決して油断することなく対処していたからである。

コンモドゥス暗殺によって軍が政治の実権を握り、次代のペルティナクス以降、軍人による皇帝の擁立が行われるようになって、後に帝国は「軍人皇帝時代」と呼ばれる停滞期に入るという説が大勢を占めていたが、近年の研究家の中にはセプティミウス・セウェルスが歩んできた出世の道等の実証によって「軍人皇帝時代」の開始年号を引き下げる学説を提示する者もいる。

映画『グラディエーター』(2000年)は、コンモドゥスをモデルにして作られている。

ゲーム『グラディエーター』では自分をヘラクレスの化身だといい主人公と対決する。


関連項目

暴君

剣闘士



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki