ケンペル
登録後3分でアエル!!
最速出会セレブマップ

[Wikipedia|▼Menu]

エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, ドイツ語読みではケンプファー、1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師博物学者ヨーロッパ鎖国中の日本を初めて詳しく紹介した「日本誌」の原著者として知られる。

なお、姓の「ケンペル」はオランダ語読みであり、日本での通称である。最近の研究書ではドイツ語読みの「ケンプファー」で言及されることも多い。
目次

1 経歴

1.1 旅立ち

1.2 日本


2 「日本誌」

3 著書

4 脚注

5 外部リンク

//


経歴


旅立ち

ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まれる。魔女狩りの横行する時代で、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。故郷やハーメルンラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルクリューベックダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の著書を出版。さらにトルンクラクフケーニヒスベルクで勉強を続けた。

1681年にはスウェーデンウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世ロシアペルシアに派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。彼の地球を半周する大旅行はここに始まる。

1683年10月2日、使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年11月7日にアストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてイランに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着した。彼は使節団と共にイランで20か月を過ごし、さらに見聞を広めてイランやトルコの風俗、行政組織についての記録を残す。彼はまた最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもある。


日本

その頃ちょうどバンダレ・アッバースオランダの艦隊が入港していた。彼はその機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務した。その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡る。1690年元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年1692年に連続して、江戸参府を経験し徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。

1692年、離日してバタヴィアに戻り、1695年に12年ぶりにヨーロッパに帰還した。オランダライデン大学で学んで優秀な成績を収め博士号を取得。故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛かったが、近くのデトモルトに居館を持つ伯爵の侍医としての仕事などが忙しくなかなかはかどらなかった。1700年には30歳も年下の女性と結婚したが仲がうまくいかず、彼の悩みを増やした。1712年、ようやく「廻国奇観」(Amoenitates Exoticae)と題する本の出版にこぎつけた。この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもない。ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している。この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであった。次の著書として「こんにちの日本」の草稿を書き上げたが、1716年11月2日に死去した。


「日本誌」

彼の遺品の多くは遺族により、3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた。1727年、遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』は、フランス語オランダ語にも訳された。さらに遺族が売れ残った遺品の中から別の「日本誌」の草稿を見つけ、それを基に1777‐79年にドイツ語版が出版された。


話題の脳内チェックを
芸能人でやってみる!

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki