グレンコーの虐殺(ぐれんこーのぎゃくさつ、The Massacre of Glencoe)は1692年、イングランド政府内強硬派およびスコットランド内の親英勢力の手によって、グレンコー村(スコットランド)で起きた虐殺事件である。規模は歴史上の虐殺事件に比して小さいものであったが、罪なき村民が背信行為によって殺された手法と経緯に、国内外から批判が集まった。これによって名誉革命体制は打撃を受け、イングランド・スコットランド関係が険悪になる原因を作った。グレンコーはスコットランド・ハイランド南西部の谷である。
目次
1 背景
1.1 名誉革命体制
1.2 ジャコバイトとウィリアマイトの戦闘
1.3 名誉革命期のハイランド
1.4 カトリックへの敵意
2 経緯
2.1 犠牲者の選別
3 虐殺事件
4 事件の影響
4.1 体制の動揺
4.2 責任の所在
4.3 村と氏族の「その後」
4.4 歌詞
5 脚注
6 参考文献
7 外部リンク
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背景グレンコー村があるロッホアーバー地方。スコットランドのハイランド南西部に位置する( ⇒Google Map拡大図)
17世紀末のブリテン島において、北端のハイランド地方の人々はロンドン・ウェストミンスタの支配力が及ばない「 ⇒化外の民」であった。地理的に遠いばかりでなく、交通の便も劣悪で、しかも言語・民族も異なっていた[1]。1688年の革命によって王位についたウィリアム3世はウィリアマイト戦争を皮切りにフランスと交戦状態に入っており[2]、北方の地を従わせることは対フランス戦略においても、また屈強をもって知られるハイランド人を味方に引き入れるためにも必要と考えられていた。
いっぽう革命によって王の座を奪われフランスに亡命したジェームズは、革命の原因でもある自身のカトリック信仰によって、アイルランドやフランスで支持されていた。特にルイ14世とは親密な関係で、ルイ14世はたびたびジェームズのために、あるいは戦略上の理由から、ウィリアム3世のイングランドと砲火を交えていた。ハイランド氏族は、後述するように、海のものとも山のものとも知れないウィリアムよりも、ジェームズにおおむね同情的だった。
ダンディー子爵などジャコバイト(名誉革命の反革命派)急先鋒は、ウィリアマイト戦争(アイルランド)に呼応するかたちで、革命に対してただちに武装蜂起で応えた。イングランドはアイルランド・スコットランドを同時に相手することになり、結果キリクランキーの戦いでの敗北という結果を招いた。しかし、この戦いでスコットランド・ジャコバイトの核であったダンディー子爵が戦死し、つづくダンケルドの戦いではイングランド側が勝利をおさめた。スコットランドはもとより上から下までジャコバイト一色というわけではなかったが、2つの戦いによって、とにもかくにも名誉革命体制に従う風潮が主流となった。
戦いに勝利したといっても、ただちにスコットランドの安定までは意味しなかった。ハイランドを中心に、各地でジャコバイトがくすぶっていた。南の敵国フランスと対峙するうえで、北方ハイランドの不安は厄介な問題のひとつであった。このような事情から、政府はハイランドに対して、何らかの方法によって実力を見せつける機会が必要だと考えていた。
名誉革命期のブリテン島北端ハイランドにおいて、2つの理由から革命に反対する思潮が主流であった。ひとつは親近感の問題で、ハイランドからみれば遥か彼方のネーデルラント総督よりも、スコットランド王家の流れを汲むジェームズが王として望ましかった。いまひとつはタニストリーを始めとするスコットランドの法と伝統である。イングランドと違って[3]法的にウィリアムの王位継承を正当づける根拠が薄かった。