グラックス兄弟とは、センプロニウス氏族グラックス家の兄ティベリウス・センプロニウス・グラックス(Tiberius Sempronius Gracchus)と弟ガイウス・センプロニウス・グラックス(Gaius Sempronius Gracchus)の兄弟を指し、ともに共和政ローマ時代の政治家である。
父は兄と同じ名のティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル(大グラックス)、母はスキピオ・アフリカヌスの娘コルネリアである。スキピオ・アエミリアヌスの妻センプロニア(Sempronia)は2人の姉。両親には全部で12人の子供がいたが、成人したのはこの3人だけである。
彼らの母親であるコルネリアは夫ティベリウスが死んだ後に数多く持ち込まれた再婚話を「子育てに専念するため」と断った。彼女はこの兄弟を「私の二つの宝石」と呼んで深く愛し、最高の教育を受けられるように取り計らった。女性の地位が低かった共和政時代のローマには珍しく、首都ローマの住民達により彫像を送られている(今は台座しか残っていない)。
目次
1 改革
1.1 ティベリウス・グラックス
1.2 ガイウス・グラックス
1.3 その後
2 失敗の理由
3 映画の中での『グラックス』
4 内部リンク
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ポエニ戦争で領土を拡大したローマは、長引く戦争での農地の荒廃と植民都市からの安価な穀物の流入、征服事業での奴隷を用いた貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大したことによる中小農民の没落を招き、無産者となり都市に流入した。ローマの軍は一定の資産を持つ市民の徴兵によって成り立っており、徴兵対象の減少は国防力の低下に直結する。やむを得ず徴兵対象をより資産の少ない者にまで拡大したが、それによって一家の働き手を取られた中小農民はますます没落し、また資産の無い者から徴兵されたローマの軍団員は著しく質が低下していった。
ティベリウス・グラックス
詳細はティベリウス・グラックスを参照
紀元前133年に護民官となるとラティフンディウムによる公有地の占有を制限して、没落した無産市民に土地を再分配し自作農の創出をめざす社会改革を開始する。だが既得権益を侵されまいと反対する元老院と対決し、それらの法律を平民集会で可決させたため騒乱を招いた。自分達の統治権が侵されたと感じた元老院は苛烈に反応しティベリウスは反対派のスキピオ・ナシカなど保守派により、カピトリーノの丘において多くの支持者とともに殺害された。
詳細はガイウス・グラックスを参照
兄ティベリウスの改革を引き継ぎ、紀元前123年に護民官になる。騎士階級を味方につけて元老院に対抗し、穀物法で貧民を救済するが、エトルリア人、ウンブロ人、サムニウム人等のローマ連合を構成するラテン同盟市に対するローマ市民権公布で紛糾し兄と同様に反対派により紀元前121年、自殺に追い込まれた。元老院によるグラックス派弾圧は元老院最終勧告(事実上の非常事態宣言)により軍隊が出動する形で行われた。兄ティベリウス殺害の際には、一連の事件の中心人物であったスキピオ・ナシカがその後民衆の怒りを避けるために実質的な自主亡命(属州へ祭儀のため派遣された)を強いられたのに対して、ガイウスの事件では責任を問われた者はいなかった。
グラックス兄弟が死んで以降も、彼らの遺志を続いて改革を行う政治家は続出した。しかしそれはローマの政界に、閥族派と平民派の対立を産み出した。そしてその対立の中から、ポプラレス(民衆派)のガイウス・マリウスが台頭する。
マリウスの軍制改革によって平民救済は違った形ながらもある程度実現される。そして農地改革についてはガイウス・ユリウス・カエサルが執政官となった紀元前59年に、ユリウス農地法として実現することとなった。その他のカエサルの施策にもグラックス兄弟の意図を受け継いだものが多い。
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グラックス兄弟による改革が頓挫した理由は色々考えられるが、後世の研究家の多くは時期尚早だったとしている。また、この後に続くスッラによる元老院強化策やカエサルによる帝政移行などが武力を持った人物によって成し遂げられたことからも軍事的背景を持たぬ護民官が軍事力を持つ(有事には正規軍を出動させることができる)元老院を相手にするのは危険すぎたと言える。