グアムの戦い_(1941年)
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この項目では1941年の戦いについて記述しています。1944年の戦いについてはグアムの戦いをご覧ください。

グアムの戦い(1941年)
戦争:太平洋戦争
年月日:1941年12月8日から12月10日
場所:グアム島
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国アメリカ合衆国
指揮官
堀井富太郎少将マクミリン大佐
戦力
5286750-550
損害
戦死1、戦傷6戦死36-50、戦傷80
南方作戦
真珠湾 - マレー - マレー沖 - シンガポール - フィリピン - 香港 - グアム - ウェーク島 - ニューギニア沖 - 蘭印 - バリクパパン沖 - エンドウ沖 - ジャワ沖 - ダーウィン空襲 - バリ島沖 - スラバヤ沖 - バタビア沖 - アンダマン諸島 - ビルマ - セイロン沖

グアムの戦い(ぐあむのたたかい、Battle of Guam 、日本側作戦名「G作戦」)は太平洋戦争初期における日本軍アメリカ軍の戦い。

当初、日本軍はグアム島のアメリカ軍を過大評価しており、同時期に行われたウェーク島の戦いに参加した部隊は全て海軍に所属していたが、グアム島の攻略には陸軍部隊が参加することになっていた。日本軍がウェーク攻略について具体的な構想を打ち出したのは昭和16年に入ってからであったが、グアム攻略に関しては大正12年から計画されており、現地には海兵隊300に現地人の兵1500がいると予測していた。しかし、アメリカ側は日本の勢力圏に取り囲まれたグアムの防衛を不可能であるとして防衛予算をほとんど割り当てなかった。(後に資金提供と作業員の派遣が行われ飛行場と潜水艦基地建設が行われたが、作業がある程度進んでいたのは潜水艦基地だけだった。)

それにグアムには日本軍の予想した兵力の半数の米軍もおらず、日本軍は上陸からたった1日でグアムを占領することができた。兵力の過剰投入は日本軍にとって初期情報戦の上での失敗であったが、これが大勢に影響を及ぼすことは無く実際、南海支隊がその後、転戦したラバウルでの南方作戦も無事に遂行された。
目次

1 背景

2 参加兵力

2.1 日本軍

2.2 アメリカ軍


3 戦闘の経過

4 戦闘の収束とその後

5 関連項目

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背景

日本軍は、グアム島マリアナ諸島におけるアメリカ軍の拠点のひとつであると考え、グアム島の攻略を重要視し、陸軍「南海支隊」と海軍「グアム島攻略部隊」・「グアム島攻略支援部隊」をグアム攻略に割り当てた。


参加兵力


日本軍

陸軍(総兵力4886名)

南海支隊。(司令官:堀井富太郎少将

歩兵第144隊

騎兵第55連隊 第3中隊

山砲兵第55連隊 第1大隊

海軍(総兵力400名)艦船21隻

グアム島攻略部隊。(指揮官:春日篤少将

敷設艦「津軽

駆逐艦「菊月」、「夕月」、「卯月」、「朧」

特設水上機母艦「聖川丸

特設砲艦「勝泳丸」、「昭徳丸」、「弘玉丸」

特設駆潜艇「第8京丸」、「第10京丸」、「珠江丸」、「第5昭南丸」、「第6昭南丸」、「昭福丸」、

特設掃海艇「第2文丸」、「第3関丸」

海軍陸戦隊1個大隊

グアム島攻略支援部隊。(指揮官:五藤存知少将

重巡洋艦「青葉」、「衣笠」、「加古」、「古鷹


アメリカ軍

守備隊(司令官:マクミリン海軍大佐) (守備隊は約400名の海兵隊員と現地民で構成されていた。総兵力750-550名)艦船4隻

小型哨戒艇「ペンギン」、第16号哨戒艇、第17号哨戒艇

港用油槽艦「R・L・バーンズ」


戦闘の経過

日本軍はその大部分が11月下旬に小笠原諸島母島に集合し、1941年昭和16)12月8日の開戦同日に水上偵察機16機によるグアム島空襲を実施し、小型掃海艇「ペンギン」を撃沈した。当時、グアムには日本人が数十人住んでおり、全員が開戦と同時に逮捕監禁された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki