クロタール1世(Clothar I、497年-561年、単独王として558年-561年)は、メロヴィング朝フランク王国の創始者クロヴィス1世の息子の一人。4人の息子の中で最も長命であり、クロヴィスの死後に息子たちへ分割相続された王国は、再び彼のもとで統一された。
497年にソワソンにて生まれる。511年に父王クロヴィスが没すると、フランク王国はクロヴィスの息子である彼の他に、長子テウデリク、クロドミル、キルデベルトによって分割された。その中でクロタールはソワソンを本拠とし、ラン、ノヨン、カンブレー、マーストリヒトおよびマース川下流域を抑える。しかしながら野心ある彼は自分の領地の拡大を努める事となる。
524年、彼は自分の兄弟クロドミルの息子を殺害させるよう扇動しトゥールとポワティエを奪取、そしてブルグンドへ数々の侵攻を試みる。534年にブルグンドを滅亡させ、グルノーブル、ディ周辺の地域を支配下におさめる。
東ゴート王国よりプロヴァンス地方の割譲を受けると彼はその割譲分の中からオランジュ、カルパントラ、ギャップを勢力下にする。531年に自らの甥テウデベルトとともにテューリンゲンに遠征、542年には兄弟キデベルトとともに西ゴート王国へと侵攻する。そして555年甥の息子テオデバルドの死去にともなってクロタールはその領地を併合、558年に兄弟キデベルトが没するとフランク王国を再併合、単独のフランク王となった。
フランク王となったクロタールはゲルマニアの大部分を支配下におさめ、ザクセンへ進攻、サクソン人に対して年に500頭の牛の上納を要求する。彼の晩年は息子クラム(Chlam)が幾度も対立するなど、内部の不和に悩まされる。クラムを追撃しブルターニュまで追い詰めたクロタールはクラムを妻子ともども小屋に閉じ込め、火をかけ焼き殺したと言う。しかし息子の殺害に自責の念を駆られたクロタールは贖罪を請うためにトゥールにある聖マルタンの墓を詣で、ほどなくして没した。
クロタール1世の死後、再び帝国は長子シギベルト1世、次子グントラム、第三子カリベルト、末子キルペルクによって分割された。まもなくカリベルトが死去したことで、その領域は残った3つの分王国によって再分割され、アウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアが鼎立する状況が形成された。 カテゴリ: フランク王国の君主 | 古代ゲルマン | メロヴィング家 | 497年生 | 561年没
更新日時:2008年7月30日(水)21:59
取得日時:2008/08/21 23:56