クリミア
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この項目ではクリミアの地理について記述しています。クリミアの政体についてはクリミア自治共和国を、小惑星についてはクリミア (小惑星)をご覧ください。

クリミア半島(クリミアはんとう;ウクライナ語:Кримクルィーム;ロシア語:Крымクルィーム)は、黒海の北岸、ウクライナにある半島である。ロシア語・ウクライナ語からクリム、クルイムとも。「クリミア」は英語名Crimea ([kra?mi?a] or [kr?mi?a]) より。古代にはタウリカ(Taurica)と呼ばれていた。ウクライナ共和国とクリミア半島 赤色の部分がクリミア半島。西と南には黒海が、北東には黒海の付属海であるアゾフ海が広がる
目次

1 地理

2 政治

3 住民

4 歴史

4.1 ギリシア人の植民とボスポラス王国

4.2 民族大移動、フン・ハザール、ビザンティン、キプチャク、モンゴル時代

4.3 ジェノヴァ時代とタタール人

4.4 ロシア時代

4.5 ソ連時代

4.6 ウクライナ時代・自治共和国


5 クリミアが舞台となった主な歴史的事件

6 主なコミュニティー

7 関連項目

8 外部リンク

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地理クリミア半島の衛星写真 浅海が黄緑色に写っているため、ペレコープ地峡が見分けにくい。左上の大河はドニエプル川ヤルタの町 1945年にヤルタ会談が開かれたクリミア半島最南部の保養地

クリミア半島は、幅5-8kmのペレコープ地峡によって大陸とつながっている。位置は、北緯44度23分-44度23分(約322km)、東経32度30分-32度30分(約177km)で、面積は、約2万6100km2である。

海岸は浸食されて入り江になっている。ペレコープ地峡の西側カーキニット湾にいくつか港がある。カラミタ湾のある南西の海岸には、イェウパトーリア、セヴァストーポリ、バラクラーヴァの港があり、1854年クリミア戦争でイギリス・フランス連合軍が上陸している。ケルチ海峡の北側には、アラバト湾またはイエニカレ湾があり、同じく南側には、同じ名前の港をもったカッファ湾またはフェオドシヤ湾がある。

南東の海岸は、ヤイラ (Yaila-Dagh) 山地にそって、すぐ8-12kmのところにある。内陸部にはもう一つアルピンメドゥーの山々が並んでいる。残りの地域の75%は、乾燥した草地で、南に向かってポンティック草原が続いている。草原は、ヤイラ山地から北西方向になだらかに傾斜している。これらの山々は、半島の南西の先端では、黒海の海底から標高600から750mまで、急勾配にそびえ立っている。そのフィオレンテ岬の頂上には、ギリシャ人の女司祭イピゲネイアが仕えたアルテミスの神殿があったと考えられている。大草原には、古代スキタイ人の墓や古墳が点在している。

ヤイラ山地の背面の風景はまた違ったものになっていて、細い海岸線や山地の斜面は、草木で覆われている。ロシアのリビエラと言われる場所が、サールィチ岬からフェオドシヤまでの南東の海岸である。そこには、アルプカ、ヤルタ、グルスフ、アルシタ、スダク、テオドシアなど、夏の海水浴リゾート地が軒をつらねている。また、タタール人の村の遺跡や、モスク、カトリックの修道院も数多くある。ロシアの皇族や貴族たちがよく訪れた場所でもあり、古代ギリシアの趣ある遺跡や、中世に建てられた要塞なども見ることができる。


政治

全土をウクライナが領有し、クリミア自治共和国となっている。


住民

ウクライナ領ではあるが、ロシア人が最多で過半を占める。続いて、ウクライナ人クリミアタタール人

ロシア人とウクライナ人は1783年にロシア領となってからの移民で、中でも大半は第二次世界大戦後である。クリミアタタール人は、13世紀ごろの移民である。


歴史

最初の住人は、確かな痕跡によると、ケルト族のシメニア人であったが、紀元前7世紀の間に、スキタイ人によって追い払われた。彼らは、山岳部に避難し、のちにタウリ人として知られるようになった。


ギリシア人の植民とボスポラス王国ギリシア人の植民地、セヴァストポリ

同じ頃、ギリシャによるテオドシアやパンティカペイオン(ボスポラス)への植民も始まっていた。ヘラクレイアからのドーリア人がケルソネソスへ、ミレトスからイオニア人がテオドシアへというように植民者が定着した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki