ギロチンとは、斬首刑(死刑の一手法)の執行具。断頭台、断首台ともいう。2本の柱の間に吊るした刃を落とし、柱の間に寝かせた人の首を切る装置。
目次
1 処刑道具のギロチン
2 開発史
3 死刑執行の歴史
3.1 フランス
3.2 ドイツ
3.3 ベルギー
3.4 スウェーデン
3.5 その他
4 娯楽としてのギロチン
5 派生事項
6 斬首後に意識はあるか
7 導入国
8 参考文献
9 関連項目
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ギロチン(仏:Guillotine)は、1792年4月25日にフランスで正式に処刑道具として認められたものである。刃が斜めになっており刃についているおもりによってすばやく切り落とすことができ、従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされる。
ギロチンの全高は約5メートルほどである。首を挟む場所は地面から37センチメートルほどの高さにあり、ギロチンは4メートルの高さから40キログラムの刃が自由落下することによって首を切断する。
当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もが処刑されていた。貴族は断首、平民は絞首刑と区別されており、また断首の場合、死刑執行人が熟練していないと、何度も切り付けて受刑者に多大な苦痛を与えることが多かった。
そこで、内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンが、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分に関係せず同じ方法が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタンの提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、ギヨタンの再度の提案と説得によりその案が採択された。
外科医のアントワーヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにするなどの改良を加えた。
なお、首と同時に両手首も切り落とす形状のものも存在する。当初は、設計者のルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」や「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前をとった「ギヨティーヌ(Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。正式名称は「Bois de Justice(正義の柱)」という。
ルイ16世やマリー・アントワネットはこれによって処刑された。また、恐怖政治を主導し、受刑者をギロチン台に送り続けたマクシミリアン・ロベスピエールも最後はギロチンの露と消えた。このように、フランス革命期すべての党派を次々と呑み込み処刑する状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。
ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが大切に保管していたと回想録に書かれているが、後にサンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたサンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した。 しかし、アンリ=クレマンはこの直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。この当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではない、そのためサンソンは横領罪に問われることは無かった。 一度、質から出されたギロチンは再度売られたという。サンソンが売り払ったギロチンは交流のあったイギリス人の手に渡り、イギリスのマダム・タッソー館にマリーアントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示されている。現在でも蝋人形館の説明書きにそう書かれている。
ギロチンの開発に関しては死刑執行人であるシャルル=アンリ・サンソンの回想録に詳細な記述が残されている。
1791年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、死刑の方法は斬首のみになった。この直後にサンソンが法務大臣に斬首の難しさと問題点について意見書を提出した。これには、斬首は非常に難しく、全員を斬首することは難しいと記されていた。この意見書は法務大臣から国会に提出され、アントワーヌ・ルイ博士に斬首の研究を依頼した。
サンソン回想録によると、この時にサンソン、ルイ博士、ルイ16世の3人で非公式に検討会が開かれたという、この時にルイ16世が、刃を直角三角形の定規のような斜めの形にすることを提案した。
1792年3月17日にルイ博士から国会に報告書が提出され、国会はこれを採択した。試作品が作成されることになり、サンソンが知り合いのチェンバロ製造業者であるトビアス・シュミット (Tobias Schmidt) に960リーヴルで発注した。