イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。近代において最も影響力の大きな哲学者のひとりである。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖でもある。
目次
1 生涯
2 思想
2.1 概説
2.2 前批判期
2.3 批判哲学
2.3.1 認識論
2.3.2 倫理学
2.3.3 美学・目的論
2.4 歴史哲学
2.5 政治哲学
2.6 宗教哲学
3 エピソード
3.1 名と姿
3.2 青少年教育批判
3.3 独身主義者カント
3.4 教育者カント
3.5 規則正しい人カント
3.6 趣味人カントの食卓
4 カントの言葉
5 著作・論文・講義
6 関連項目
7 注釈
8 外部リンク
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イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で、皮革工親方の三男として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごし、そこで没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った。1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校にすすんだ。1740年には、ケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学を志したが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもとライプニッツやニュートンの自然学を研究した。
1746年、父の死去に伴い大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究では、クヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。その後約9年間、主に家庭教師をして生計を立てる。
1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社が倒産したため極少数のみが公刊された(1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせカント・ラプラスの星雲説といわれる)。4月、ケーニヒスベルク大学哲学部に学位論文『火について』を提出し、6月12日、これによりマギスターの学位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新しい解釈』で公開討議を行い、冬学期より同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。
1756年、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出た員外教授の地位を得るため、それに必要な二回の公開討議の第一回目の素材として「物理的単子論」を著す。4月12日に第一回目の公開討議が行われるが、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を直前にひかえ欠員補充をしない方針を打ち出したため、員外教授就任の話は白紙となる。1764年、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたが、カントはこれを固辞。また、1769年にエルランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいか、それとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これらも断っている。
1766年『視霊者の夢』(エマヌエル・スヴェーデンボリ(英語読みではスウェーデンボルグ)の千里眼という超常現象について、基本的に激しく批判しているものの、それが存在するのか幻覚であるのか判断できないという感想も併記している)を出版。