オーデル・ナイセ線( - せん)は、現在のドイツ連邦共和国とポーランド共和国の国境線。オーデル川とその支流のナイセ川によって構成される。ポーランド国境の推移 オーデル・ナイセ線は図左端を縦に伸びる赤線。緑色の線(CURZON LINE、カーゾン線)は第一次世界大戦後に定められたポーランド・ロシア国境。青線は1921年のリガ条約で決まったポーランド国境。オレンジ色の線は独ソ不可侵条約で定められたポーランドを分割するライン。赤が第二次世界大戦後のポーランド国境。ポーランドはリガ条約で獲得した空色の領域をソ連に譲り、黄色で示したドイツ領を得た
目次
1 歴史
2 影響
2.1 ポーランドへの影響
2.2 ドイツへの影響
3 決定以後
3.1 国境線の最終解決
4 関連項目
//
オーデル・ナイセ線は、1945年のポツダム会談により、第二次世界大戦後のドイツ・ポーランドの暫定的な国境として設定された。それ以前のドイツ・ポーランドの国境は、歴史的なプロイセンとポーランドの国境が適用されており、オーデル・ナイセ線よりもずっと東側にあった(参照:ポーランド分割による各国の獲得領土)。
オーデル・ナイセ線をドイツ・ポーランドの国境とする根拠は、歴史的に見ると中世前半期にまで遡らなくては見出せない。
古代には現在のポーランド領付近はブルグント族などゲルマン人諸部族の居住地であったが、ゲルマン民族の大移動によって彼らが移動したのち、原住地ウクライナ付近から拡張してきたスラブ系民族が移り住んだ。
フランク王国の時代にはエルベ・ザーレ川付近が境となり、以東、現在のブランデンブルク州やザクセン州付近まで、スラブ系のソルブ人が住んでいた。カール大帝らによるエルベ以東遠征以降、13世紀頃まではおよそオーデル・ナイセ線付近がドイツ(神聖ローマ帝国)とポーランドの国境であった。その後ドイツ騎士団による東方植民によって、オーデル・ナイセ以東のシュレジエン、ポンメルン、ついでプロイセンがドイツ人の領域に組み込まれた。
(その当初の強引な征服に問題はあるにしても、)以後第二次世界大戦の終戦までの700年間あまり、これらの地域にはドイツ系住民が多数派として居住し、ドイツの一部として認識されていた経緯がある。
新しい国境線をオーデル・ナイセ線に設定したのは、ポーランドをそれまでより西側に移し、それまでポーランド領であったベラルーシの西側を、ソ連領に組み込むことが目的であった。結果として第二次世界大戦前後で比較すると、ポーランドは国土全体が西側に移ったような形となった。
ポーランドにとってこの国境線設定は
ポーランドのユダヤ人がナチスによって絶滅させられるか、アメリカ合衆国やイスラエルに亡命するなどして、国内から全くいなくなってしまったこと
この地域に住んでいたドイツ人が、ほとんど難民という形でドイツに移住してしまったこと(ドイツ人追放)
東側のロシア人、ベラルーシ人やウクライナ人を切り離したこと
などから、新生ポーランドは極めてポーランド人の均一性が高い国家になることになった。
ドイツにとっては
歴史的にプロイセン領であったほとんどすべての地域を失ってしまったこと
中世以来、この地に数百年に亘って定住していたドイツ系住民が追放されたこと
この地域がプロイセン揺籃の地であったこと
から、極めて喪失感が強かった。また、この地域のドイツ人がほとんどいなくなったことにより、この地域のプロイセン文化が喪失されてしまった。
この国境線は「暫定的なもの」として定められたものであるが、ソビエト連邦がポツダム会談を通じて衛星国であるポーランド人民共和国とドイツ民主共和国(東ドイツ)に押し付けたものであった。従ってこれを否定するという選択肢はあり得ず、東ドイツ成立後の1950年7月6日にポーランド人民共和国とドイツ民主共和国との間でズゴジェレツ条約が締結され、この2カ国間では受け入れられることになった。
もう一つの問題として、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)がこのラインを「ドイツ」とポーランドの国境として受け入れるか?という問題が残っていた。50年代-60年代の西ドイツは共産主義者の支配するドイツ民主共和国を承認せず、これと国交のある国とは外交関係を結ばないという政策(ハルシュタイン原則)を採っていた。このため当初は交渉にすらならなかった。