オデッサ_(オデッサ州)
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オデッサの位置

オデッサ(ウクライナ語:Одесаオデーサ)は、ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州の州都であり、横浜市姉妹都市提携を結んでいる。人口は約99.3万人(2006年)。

重要な貿易港を持ち、またこれまでの歴史上様々な国の支配を受けてきたため、非常に国際色豊かな都市となっている。ソビエト連邦時代に発展を遂げたため、主に現地人の間で使用されている言語はロシア語であるが、ウクライナ語が公式言語とされている。住民はウクライナ人ロシア人ユダヤ人ギリシャ人ルーマニア人ブルガリア人トルコ人と多種多彩である。
目次

1 名称

2 歴史

3 文化

4 ゆかりの人物

5 姉妹都市

6 関連項目

7 外部リンク

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名称

ウクライナの独立以降、公用語はウクライナ語のみとなっている。従ってこの町の名もウクライナ語名Одесаのみが正式に名称と認められる。この名前については、日本語ではオデーサ、あるいはアクセント位置を示す長音符を用いずにオデサと表記する。古くはアクセント位置に長音符ではなく促音を用いていた慣習から、従来の表記オデッサもウクライナ語名と認められないわけではない。

ウクライナの独立まで長らく公用語として用いられてきたロシア語では、Одессаと書き「アヂェーサ」のように発音する。そして、日本語では例外なくオデッサと表記される。

このページでは、「オデッサ」という表記が日本語文献内で非常に定着度が高いこと、「オデッサ」であってもウクライナ語公式名と認められないわけではないことから、以下原則「オデッサ」で統一することとする。


歴史市街風景, 1895

1792年エカチェリーナ2世の時代にロシア帝国領となり、1794年から港の建設が始められた。彼女はトラキアに存在した古代ギリシアの植民地オデッサス(現ヴァルナ)にちなみこの街をオデッサと名付けた。街は貿易都市として順調に発展した。1823年から翌年にかけてこの街に滞在したロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンは手紙の中で西ヨーロッパ色の強い街の様子について言及している。1821年にはオスマン帝国からのギリシャ独立を目指す秘密組織フィリキ・エテリアがこの街で結成された。1853年に勃発したクリミア戦争においては、ワラキアモルドバの両地域へ侵攻したロシア軍の拠点でもあったため、1854年よりオスマン帝国を支持して参戦したイギリスフランスの攻略目標となった。

19世紀を通じてユダヤ人が増加し、大きなコミュニティを形成した。1887年には街の人口の約3分の1がユダヤ人であった。ウクライナ出身でロシア革命の中心人物であるレフ・トロツキーは、8歳よりこの街で学んでいる。富裕なユダヤ人の存在のお陰で、オデッサは商業を中心とした文化先進都市として発展していた。その一方、19世紀を通じて何度かのポグロムを経験している。

日露戦争さなかの1905年に、この街で戦艦クニャースィ・ポチョームキン・タヴリーチェスキイ号の反乱が起こった。この反乱は後にソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインによって映画「戦艦ポチョムキン」として作品化されている。1917年ロシア革命が起こると、オデッサはウクライナ国民共和国中央ラーダ軍をも含めたいくつものグループ、フランス軍、赤軍白軍による占領が繰り返され、最終的に1920年赤軍が支配権を取り戻した。この期間に街は大きな損害を被り、多くの住民が難民となり国外へ脱出した。第二次世界大戦中は1941年8月から10月にかけて激しい攻防戦が行われ、ドイツ軍ルーマニア軍により占領された。その後、1944年4月に赤軍が街を奪還した。

1960年代から1970年代にかけて、造船を中心として製油、化学工業、金属精錬などの重工業が発展し街は飛躍的に発展した。1970年代以降にはソ連の政策もあり、多くのユダヤ人がイスラエルアメリカ合衆国へと移住した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen