オイラト(Oirad, Oyirad)は、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。
オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている。しかし、本来はオイラト族である。ロシア連邦ではカルムイク人と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
目次
1 モンゴル帝国時代
1.1 姻族クドカ・ベキ家の発展
2 オイラト部族連合の形成
3 エセンの覇権
4 エセン没落後のオイラト
5 グシ・ハンのチベット征服
6 ジュンガル帝国
7 清朝以降のオイラト
8 関連項目
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オイラトは、モンゴル帝国以前の12世紀にバイカル湖西部のアンガラ川からイェニセイ川に掛けての地域、現在のモンゴル国西部のフブスグルからトゥヴァ共和国の地にかけて居住していた部族集団で、元来はテュルク系であったとみる説もある。『元朝秘史』、『元史』では斡亦喇?、斡亦剌などと書かれ、『集史』などのペルシア語資料では ?????? ?yr?t と書かれている。のちに瓦剌部と呼ばれる。
13世紀初頭、オイラト部族集団の首長のひとりとしてクドカ・ベキの名が知られている。『元朝秘史』によると1200年頃に一時アルチ・タタル氏族、グチュウト・ナイマン氏族、メルキト部族などの諸部族の盟主となったジャムカがオン・ハン、テムジン(後のチンギス・ハーン)の連合軍に敗れたコイテンの戦いにおいて、ジャムカ勢の先鋒としてクドカ・ベキも参加している。その後、ナイマン、キルギズなどの周辺諸勢力が征服されたことから、1208年夏にクチュルクおよびメルキト部族連合の盟主トクトア・ベキらの追撃にイルティシュ川周辺に親征してきたチンギス・ハーンに、自ら赴いて帰順した。この時、彼はチンギスよりオイラト部族4個万戸隊の長に任命され自治権を安堵された。『元朝秘史』に見える T?men Oyirad 「オイラト万戸」というのがそれで、のちの「オイラト四万戸」(D?rben Oyirad)と呼ばれる契機となったと考えられている。併せてこの時の帰順によって、クドカ・ベキの一門はチンギス家の皇女の降嫁を受けて?馬(キュレゲン)家、つまりチンギス家の婿・姻族となり、モンゴル帝国の有力部族集団となった。クドカ・ベキはジョチに従って「森の民」(ホイ・イン・イルゲン)と呼ばれるブリヤト、キルギズ、コリ・トマトなどシベリア南部の狩猟民の征服に協力し、さらにクチュルク、トクトア・ベキの連合軍を撃破してトクトアを戦死させている。その後もチンギスの諸子や孫たちと皇女の降嫁や婿などを交換し、各地の遠征には子息たちも従軍するなどモンゴル帝国の中枢で活躍している。
オイラト族のクドカ・ベキ家は13世紀を通じてコンギラト部族などと並ぶチンギス・ハーン家の主要な姻族となった民族である。クドカ・ベキ自身はその後トルイの右翼軍の幕僚となったが、彼にはイネルチとトレルチという二人の息子がおり、その妻としてチンギス・ハーンは、イネルチにはバトゥの姉妹コルイ・エゲチを与え、トレルチにはボルテとの間に儲けた第二皇女チチェゲンを降嫁させている。モンゴル帝国の最後のイラン総督であったアルグン・アカもクドカ・ベキ家ではないがオイラト部族の出身であった。
トレルチの娘たちはチンギス家との姻戚が特に多く、最初トルイに嫁ぎ後にモンケの第一正妃となったオグルガイミシュ皇后やフレグの第四正妃オルジェイ・ハトゥン、ジョチ・ウルスのバトゥの次男トクカンに嫁ぎモンケ・テムル、トデ・モンケの生母となったクチュ・ハトゥンがいる。またチチェゲンとの娘にはチャガタイの嫡孫カラ・フレグに嫁ぎムバーラク・シャーを産んで、一時チャガタイ家の監国となったオルクナ・ハトゥンやアリクブケの第一正妃イルチガミシュ、フレグの第二正妃グユク・ハトゥンが知られている。
フレグの一族でも、コンギラト部族と並んでオイラト王家との姻戚関係が強かったことでも知られている。例えば、特に上記のクドカ・ベキの嫡子トレルチ・キュレゲンとチンギスの第二皇女チチェゲンとの娘グユク・ハトゥンは、後にフレグの第二正妃となっている。チチェゲンは他にブカ・テムルなどを儲けているが、このブカ・テムルはフレグに従って妃となった姉妹たちとともに万戸隊(テュメン)を率いて西方遠征に参加しおり、そのまた彼の姉妹オルジェイがアバカの正妃となり、アバカの兄弟ジョムクル、テクシらはブカ・テムルの娘を娶っている。また、イルハン朝のオルジェイトゥの第四正妃であるハージー・ハトゥンも、バイドゥ・ハンの筆頭部将であったオイラト部族のチチャク・キュレゲンの娘で、アブー・サイードの母となった人物である。
クトカ・ベキの後裔を中心とするオイラト部族の将軍たちは、チンギス家の姻族として帝国の各地に移住し、イルハン朝下のイランで活躍したものもあらわれたが、原住地のモンゴル高原ではふるわなかった。モンゴル高原のオイラト部族は上述のようにチンギス・ハーンの四男トルイの末子アリクブケの一族と姻戚関係を結んでいたが、1264年にアリクブケが兄クビライとの後継者争いに敗れたためにアリクブケ一門が政治的にふるわなくなり、オイラト部族もその影響を受けたためとみられる。