エンテベ空港奇襲作戦、オペレーション・エンテベ、またはオペレーション・サンダーボール/サンダーボルトは、1976年7月3日深夜から4日早朝にかけてウガンダのエンテベ国際空港で実施されたイスラエル軍の軍事作戦。作戦で唯一戦死したヨナタン・ネタニヤフ中佐に因んで「オペレーション・ヨナタン」とも呼ばれる。ハイジャックされた旅客機の乗客を3人を除いて救出した。
目次
1 概要
1.1 ハイジャック
1.2 要求
1.3 交渉
1.4 イスラエル軍の攻撃
1.5 人質殺害
1.6 人質解放
2 評価と分析
2.1 成功の理由
2.2 主権侵害
3 陰謀説
4 同作戦を描いた作品
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
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1976年6月27日にギリシアのアテネ国際空港を離陸したフランス、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港行きのエールフランス139便(エアバスA300B2、機体記号F-BVGG)は、離陸後に8名のテロリストにハイジャックされた。
ハイジャック犯は8名のPFLP-EO(パレスチナ解放人民戦線の分派)および2名の西ドイツのテロリストグループ「革命細胞」( ⇒Revolutionare Zellen、略称RZ)のメンバーであった[1]。彼らは反イスラエル的な志向を持つ、ウガンダのイディ・アミン大統領の援護を受けていた。
248人の乗客とミケル・バーコス機長以下12人の乗員を乗せたエールフランス機は、ハイジャック犯の指示に従い、リビアのベンガジにあるベニナ空港で7時間かけて給油とイギリス人の妊婦、身体障害者の人質の解放を行い、その後ウガンダのエンテベ国際空港に強制着陸した。
エンテべ国際空港に到着した犯人グループはイスラエルで服役中のテロリスト40名の釈放を要求した。256名の乗客はイスラエル人およびユダヤ人を残し解放された。残された乗客はエンテべ国際空港の旧ターミナルビルのトランジット・ホールで人質となった。犯人グループは要求が応じられない場合人質を殺害するとして脅迫した。
犯人グループは、ユダヤ人およびイスラエル人以外の乗客を救援のために派遣された別のエールフランス機に乗せることを発表した。139便のミケル・バーコス機長は犯人グループに「人質の安全は自分の責任である」と伝え、人質を残して去りはしないと伝えた。全乗務員は自らの意志でバーコスと行動を共にしエンテべ空港に残った。彼らが後に解放されパリに帰還したとき、バーコスはエールフランスの上司に叱責され職務停止の処分を受けた。また、フランス人の尼僧も解放されることを拒否し、人質の身代わりになることを要求したが、彼女はウガンダ兵によってエールフランス機への搭乗を強要された。
攻撃に先立ってイツハク・ラビン首相率いるイスラエル政府は、人質の釈放に向けてアミン大統領への直接交渉を行うのみならず、アメリカやソ連を経由してアミン大統領に交渉を働きかけるなど多数の政治的手段を試みた。特にイスラエルの退役軍人のバー・レフ将軍はアミンとの長年の知己であり、個人的な強い繋がりを持つと考えられた。内閣の要請でレフは人質の釈放を求め電話でアミン大統領と何度も話したが、攻撃開始時まで交渉は難航していた。
その後交渉の難航とハイジャック犯からの人質殺害の脅しを受けて、イツハク・ラビン首相は軍事的手段による人質の解放を決意し、イスラエル国防軍の派遣を決定した。なお、事件後に公開された多くの文献が、当時のイスラエルの内閣は軍事的手段の成功に見込みを持っておらず、パレスチナ人テロリストの釈放準備を整えていたことを示している。