ウディ・アレン(Woody Allen、1935年12月1日 - )は、アメリカを代表する映画監督。俳優、脚本家、小説家、クラリネット奏者など様々な顔を持つ。本名はアラン・スチュアート・デイヴィッド・コニグスバーグ(Allen Stewart David Konigsberg)。
目次
1 プロフィール
1.1 少年時代
1.2 コメディアンとしてのウディ・アレン
1.3 映画監督・俳優としてのウディ・アレン
1.4 小説家としてのウディ・アレン
1.5 クラリネット奏者としてのウディ・アレン
1.6 家族
2 作品
2.1 映画
2.2 CM
2.3 書籍
3 受賞歴
3.1 アカデミー賞
3.2 BAFTA
4 参考・関連文献
5 外部リンク
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幼き日のウディ・アレンは、ニューヨークのブロンクス区で、東欧・ユダヤ系の家庭に生まれた。父親のマーティン・コニグスバーグ(Martin Konigsberg、1900年12月25日 - 2001年1月13日)と母親のネティー・チェリー・クローネンバー(Netty Cherrie Krohnenber、1908年 - 2002年1月)はアレンが生まれてから妹のレティ(Letty、1944年 -)が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた。
ゆえにアランの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アランに対して激しい叱責(時には手も出る)を行った。妹のレティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アランはそれと比べて「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アランはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになっていった。
コニグスバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アランもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになった。これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリック・スクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに傾倒した。16歳の時に、アランはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけた。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いヤツ」という評判が立ち、アレンは徐々にコメディに傾倒(元から喜劇映画はお得意とするとこだった)し、その道を志望するようになっていった。(アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン好きということで意気投合し、後にアレンの初期の映画で共同で脚本を書いている。)
1952年、ハイスクール在学中に、アランはPRの仕事をしている従兄やニューヨーク・デイリー・ミラー、ニューヨーク・ポストなどにギャグを送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」(極短期間「ヘイウッド・アレン」とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アランはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった。
1953年、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学とスペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートは例の調子でコメディ風といった調子で、中退してしまった。ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、アレンのさぼり癖はおさまらず、またもや中退。母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズという最強のコネを使って後押した。バロウズはアレンの才能を高く買い、シド・シーザーやピーター・リンド・ヘイズなどのテレビ司会者を紹介するとともに、アレンにギャグ・ライターだけではなく、シリアスな芝居とコメディを両立させる事の必要性を説いた。
1955年、同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBCの放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモンやメル・ブルックス、ラリー・ゲルバードらとともに働いた。