インド洋(インドよう)は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つ。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。
北はインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。東はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島の線、およびオーストラリア西岸、南は遠く南極大陸に囲まれた海洋である。
インド洋上にある主要な島々には、上記に上げたほか、マダガスカル島、コモロ諸島、セーシェル諸島、モルジブ諸島、モーリシャス島、クリスマス島、ココス諸島などがある。
目次
1 経済活動
2 歴史
2.1 モンスーンの海
2.2 海の道
2.3 ポルトガル艦隊の登場
2.4 オマーンによる覇権
2.5 イギリスの支配
3 含まれる主な海域
4 関連項目
//
インド洋は中東、アフリカ、東アジアとヨーロッパ、アメリカを結ぶ主要な海上交通路となっている。特にペルシャ湾とインドネシアからの石油および石油製品の主要な運送路となっている。またサウジアラビア、イラン、インド、西オーストラリア沿岸部には豊富な天然ガスの埋蔵が確認されている。推計で世界の海底油田からの産出量の 40% はインド洋から産出される。
インド洋北部は、モンスーン(季節風)の影響が強く、夏は南西から北東に(東アフリカ方面からアラビア・インド方面に)、冬は北東から南西に風が吹く。海流も季節風の影響を強く受けて、夏は時計回りに、冬は反時計回りに海流が生まれる。
この時期によって一定の方向へ向かう風と海流は帆船の航行に向いていた。さらに、季節によって方向が変わるので、ある季節に出かけた船は、風向きが変わる季節に帰ってくることができる。この季節風の性質を利用して、東アフリカ・アラビア・インド間で紀元前から交易が行われてきた。
紀元1、2世紀ごろに書かれた『エリュトゥラー海案内記(周遊記)』によれば、ギリシアの商人ヒッパルスがインド洋の季節風を利用し、アラビアからインドへ沖合を航海した。ことから、南西風をヒッパルスの風と呼ばれていたことがある。
『エリュトゥラー海案内記』には他にもアラビアのモカ(イエメン)の港から、多数の船が東アフリカに向かっていたこと、インド、マレー半島、中国の記述がある。しかし、他に資料が乏しく詳しいことはあまりよく判っていない。
アッバース朝以降には、ダウ船と呼ばれた木製の帆船により、インドの香辛料だけではなく中国の絹や陶磁器が西へ運ばれた。西の東アフリカからは象牙・犀の角・鼈甲が、北はヨーロッパやオリエントからガラス製品・葡萄酒が交易されていた。内陸部の交易路シルクロードに対して、海上交易路を海の道、あるいは海のシルクロードと呼んでいる。インド洋はその海の道の主要部を成していた。
アッバース朝はバグダードを首都としたので、首都に近いペルシア湾を中心に交易が発達した。しかし、アッバース朝の衰退・滅亡や、エジプトのファーティマ朝やマムルーク朝の繁栄にともない、紅海を中心に帆船が行き来するようになった。
中国明朝の永楽帝は、朝貢貿易の再開を目的に1405年以降、7回にわたって鄭和に数十隻の艦隊を与え、を東南アジアからインド洋に派遣した。鄭和第3回までは、インドのカリカット(コジコーデ)までしかこなかったが、第4回以降はアラビア半島まで航海し、別働隊は東アフリカまで来航した。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルのリスボンを出発した。ガマの艦隊は喜望峰を回り、1498年4月13日にマリンディに到着した。マリンディで雇った水先案内人に導かれ、5月20日にカリカットに到着した。その後相次いで来航したポルトガル艦隊は、ゴア(インド)、マラッカ(ムラカ、マレーシア)、モンバサ(ケニア)などを支配下に置き、インド洋交易を支配した。