イリュリア(イリリア、古典ギリシア語: ?λλυρ?α、ラテン語: Illyricum)は、古代ギリシア・ローマ時代に現バルカン半島の西部に存在した王国。 イリュリア語を話すイリュリア人によって建国され、共和政ローマによって滅ぼされた
イリュリアの正確な姿は、現在の歴史家にも十分にはわかっていない。 イリュリア人の勢力範囲とイリュリア王国の領域とは必ずしも一致せず、さらに、 イリュリア王国の国境線はあいまいな部分がある。 例えば、ダルマティアは言語的にはイリュリア人に分類されるが、イリュリア王国には短期間しか所属していない。
目次
1 イリュリア人の定着
2 イリュリア王国
3 イリュリアのその後
4 古代イリュリアの宗教
5 関連項目
6 参考書籍
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考古学の一説によれば、イリュリア人の祖先は、青銅器時代の初期にはイリュリア地方に定着し、非インド・ヨーロッパ語族の祖先と混合したと考えられる。 こうしてイリュリア人が誕生し、アウタリティア( ⇒en:Autariatae)、ダッサレティア(Dassaretae)、セリドネス(Chelidones)、タウランティ( ⇒en:Taulanti)など、古代イリュリア人の部族が形成された。 さらに北に住んでいたダルマティア( ⇒en:Dalmatae)、パンノニ( ⇒en:Pannoni)などの部族も、イリュリア部族として分類されることが多い。
古代イリュリア人は、牛、馬や農産物を育てたり、銅や鉄を採掘し道具をこしらえたりして、それらを交易して生活していた。 部族の族長は年長者の会議によって選ばれた。 現スロベニアの首都リュブリャナで発見されたイリュリア人の彫刻壁には、いけにえの儀式、祝宴、戦闘、体育行事、その他の活動が描かれている。
イリュリア人はバルカン半島西部に定着したが、しばしば、イリュリア人の一部がイタリアに集団移住することもあった。
イリュリアの部族同士はいつも反目し、戦いを繰り返していた。 特定の部族が他の部族を支配することも多く、短命の王国が何回も形成された。 紀元前5世紀頃には、イリュリア人の勢力範囲は北に広がって、現スロベニアのサヴァ川周辺まで伸びた。
紀元前4世紀にバルデュリス王が現れて、イリュリア王国を強大な力を持つ国に変えた。 当時のイリュリア王国の主要都市は、リッソス(現アルバニアのレジャ)、エピダムノス(別名ドゥラキウム、現アルバニアのドゥラス)があげられる。
紀元前359年、イリュリア王国はマケドニア王国に侵攻し、マケドニア王ペルディカサス3世を倒してマケドニアの一部を支配下においた。 しかし紀元前358年、マケドニア王のピリッポス2世(アレクサンドロス大王の父)の逆襲に遭ってイリュリア王国は敗北し、マケドニアにオフリド湖までの支配を取り戻された。 アレクサンドロス大王の時代になってからも、紀元前335年にイリュリアの族長クレイタスがマケドニアに抗戦したが、敗退した。 アレクサンドロスのペルシア遠征には、イリュリア部族の指導者と兵士とが同行している。
紀元前323年のアレクサンドロスの死後、イリュリアには独立王国が再興した。 紀元前312年、イリュリア王グラキアスはエピダムノスからギリシア人を追放した。 紀元前3世紀の終わりには、イリュリア王国は、現アルバニアの都市シュコドラ近くに首都をおき、アルバニア北部、モンテネグロ、ヘルツェゴビナを支配するようになった。
ピネス王の摂政として、『イリュリアの女王』と称されたテウタが統治した紀元前231年から紀元前228年にかけて、イリュリアの海賊が盛んにアドリア海のローマ商船を襲い、古代ギリシアのポリスや周辺国に脅威を与えた。 イリュリア王国は海賊を庇護したため、紀元前229年、ローマはイリュリア王国に侵攻した(イリュリア戦争、 ⇒en:Illyrian Wars)。 ローマは ネレトバ川周辺集落に侵攻してアドリア海を脅かしていた海賊を鎮圧し、戦争は紀元前219年に終わった。
紀元前180年、ダルマティアがイリュリア王国からの独立を宣言した。 イリュリア最後の王ゲンティウスの時代、イリュリア王国はローマに侵攻され、紀元前168年に首都スコドラ(現アルバニアのシュコドラ)が陥落した。 ゲンティウス王は捕虜となり、紀元前165年にローマに連れ去られた。 イリュリアには、まずは、4つのローマ同盟国が作られ、実質的にはローマに支配された。後に、この地域は、ローマに直接支配される属州イリュリクムとなった。
6年、属州イリュリクムで大規模な反ローマ暴動が発生したもののティベリウスによって鎮圧された。10年にローマ属州イリュリクムがダルマティアとパンノニアとに分割された。