アルメニア王国(もしくは大アルメニアと呼ばれる)は紀元前190年から紀元前66年まで独立していた王国であり、428年までローマとペルシア帝国に従属していた国家だった。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした。
目次
1 歴史
1.1 独立まで
1.2 セレウコス朝崩壊後
1.3 アルメニア王国の繁栄
1.4 ローマとパルティアの支配
1.5 アルメニア王国の衰退
1.6 言語
2 関連項目
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王国として独立するまではアケメネス朝のアルメニア地域のサトラップであった。マケドニアの手を借りてオロンテス朝 ⇒en:Orontid Dynastyとして独立した。
セレウコス朝の崩壊の後、紀元前190年にアルタクセス1世 ⇒en:Artaxias Iによってヘレニズムの影響を受けたアルメニア政権が誕生した。紀元前95年から紀元前66年の絶頂期にアルメニアは支配権をコーカサスを越えて、現在のトルコ東部からシリア・レバノンにまで及ぼした。しばらくの間はローマ東方の最も強大な国として存在していたが紀元前66年にはローマの影響下に入った。
ティグラネス2世(大王と呼ばれる)の征服の後、アルメニア王国はアルタクシアス朝 ⇒en:Artaxiad Dynastyの時にその領土を最大範囲に広げた。その後紀元前80年アルメニアはしばしばローマとペルシアの間で論争の的となった。パルティアは37年から47年までアルメニアを屈服させた。ローマはアルメニア王国の宗主権を取り戻そうとした。
ネロの治世下、ローマは同盟を結んだアルメニアに侵略してきたパルティアと55年から63年まで戦った。60年のアルメニア奪還と62年の喪失の後、ローマはパンノニアから第十五アポロン軍 ⇒en:XV Apollinarisのシリア総督コルブロを派遣する。コルブロは第十五アポロン軍の他、第三ガリア軍 ⇒en:Legio III Gallica、第五マケドニア軍 ⇒en:Legio V Macedonica、第十フレテンシス軍 ⇒en:Legio X Fretensisと第二十二軍を率いて63年、アルメニアの王位をティリダデス1世 ⇒en:Tiridates I of Armeniaに復位させたヴォロガセス1世の領域に入った。 これ以来、パルティアが望む人物を王に就け、戴冠はローマ皇帝及びその代理が行うという両属体制が出来た。名目上はローマ帝国の属国で、実質はパルティアの属国という折衷案である。
ヴォロガセス4世がアルメニアに侵略し、旗下の将軍を王位に就けたことによって162年から165年までルキウス・ウェルス帝の戦役が引き起こされた。パルティアの脅威に対し、ウェルスは東へ出発した。彼の軍は大勝を治め、首都を取り返した。ローマ市民権を持ち、アルメニアの相続権利を持つソハエムスが傀儡王として即位した。
サーサーン朝ペルシアは252年アルメニアを占領し、ローマが287年に取り戻すまで保持した。384年に王国は東ローマとペルシアの間で分裂した。西アルメニアは即座に小アルメニアという名でローマの属州となった。東アルメニアは428年までペルシアの内部でそのまま王国として残った。その後地方貴族が王制を廃止、サーサーン朝が行政官を送り込んだ。アルメニアは301年にキリスト教(後のアルメニア教会)を国教としたが、これは世界初であった。アルメニア人の間にはキリスト教は浸透しており、ローマ側においても、ペルシア側に併合された地域でもキリスト教の信仰は衰える事はなかった。
紀元前2世紀までの大アルメニア(現在のカラバフを含む)ではアルメニア語が話されており、現在のアルメニア人は直接の言語学的な子孫であると考えてよい。
関連項目
アルメニア