アラル海(アラルかい、カザフ語:Арал Те??з?、ウズベク語:Orol dengizi、露:Аральское море、英:Aral Sea)はカザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖である。
アムダリヤ川とシルダリヤ川が流れ込み、流出河川はない。近年の湖の面積の減少により分断された北側を小アラル海、南側を大アラル海と呼ぶ。更にその大アラル海は東アラル海と西アラル海に分断され、東アラル海は水深も浅く消滅の危機に瀕している。
なお、この湖の北岸はインド・ヨーロッパ語族の発祥地と推測されている。
目次
1 概要
2 自然改造計画による環境破壊
2.1 時代背景
2.2 無謀な計画
2.3 悲惨な結果
3 再生への取り組み
3.1 コカラル堤防建設後
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
//
年海面
高度m海面の
面積km?水量km?塩分
濃度‰
1960年53.468,000
(100%)1,090
(100%)10
1971年51.060,200
(89%)925
(85%)12
1976年48.255,700
(82%)763
(70%)14
1987年40.541,000
(60%)374
(34%)27
1989年頃大アラル海と小アラル海に分断
2000年34.022,400
(33%)-50
2005年頃大アラル海が西アラル海と東アラル海に分断
内陸湖。かつての塩分濃度は海水の1/10程度であった。流出河川は無く「尻無し湖」と呼ばれる。世界で4番目の面積を誇っていたが、1940年代よりスターリン - フルシチョフ時代の旧ソ連が「自然改造計画」の一環として実施した[1]綿花栽培のための灌漑やアムダリア川の上流部にカラクーム運河を建設したことにより、アラル海に流れ込むアムダリヤ川とシルダリヤ川の流量が激減。1960年代以降、面積が急激に縮小し、大アラル海消滅も目前に迫っている。
1989年頃には北側の小アラル海と南側の大アラル海に分断され、さらに現在は大アラル海が東西に分断されつつある。1960年に比べて水面が15m以上低下し面積が62%、水量が84%も減少、塩分濃度が6倍以上になった。これにより、アラル海に生息していた魚などの動物の大半が死滅し漁業も壊滅し、名産であったキャビアや缶詰などの周辺産業もほぼ全滅。ゴーストタウンと化した地域も少なくない。
2005年頃には大アラル海が東西に分断された。一方の小アラル海はコカラル堤防の建設により回復しつつある。
一方で国境問題[2]や経済的事情から広域的な協議はされておらず、有効な対策はほとんど実行されていない。
これら人的要因による湖の縮小・それにともなう周辺環境の急変は「20世紀最大の環境破壊」とも言われている。
帝政ロシア時代より中央アジア地域に運河を張り巡らす構想は存在した。 19世紀末のグルコフスコイによる案は,中央アジアに灌漑をひいて綿花を栽培するというより,インドの綿花を輸送するための運河計画案であったといわれる。 また、南北戦争によってアメリカの綿花が入らなくなり世界的に綿花供給が減少し、この時期,英国はインドのパンジャーブで灌漑を取り入れた綿花栽培をおこなったようにロシアは中央アジアで、という狙いがあったのではないかともいわれる。そういった構想はロシア革命後も形を変えて引き継がれた。
冷戦時代のソ連は社会主義陣営の盟主として陣営内の物流機能を西側に頼らずにまかなうこと、それも「社会主義的政策」により素晴らしい効果を挙げることが必要だった。そのため「自然改造計画」が発案され、1940年代より運河・水路が建設された。そして中央アジアの砂漠地帯を農業用地に変えコルホーズ、ソフホーズなどで綿花、米等の栽培を行った。
灌漑のための取水量増加に伴い、綿花の生産は増大した。ウズベキスタンにおいて1940年に150万t弱だった綿花生産量は1970年に450万t、1986年には500万tに達した。こうした成果は西側に対する示威行為として「社会主義の勝利」と銘打って華々しく喧伝された。
ところがこの計画は中央政府が専門知識のないまま机上の思いつきによる発案をトップダウン式に命令を下し断行したため、のち多くの問題をもらたしている。