アメリカズカップ
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アメリカスカップ[1](America's Cup)は、1851年より現在まで続く国際ヨットレース。また、その優勝杯の名。制定以来継続して使用されている世界最古のスポーツトロフィーのひとつとして、一般に認知されている。[2][3]アメリカスカップ優勝杯
目次

1 沿革

2 主なルール

3 各大会と防衛艇・挑戦艇

4 ニッポン・チャレンジ

4.1 主なプロフィール


5 32nd America's Cup

5.1 防衛艇

5.2 挑戦艇

5.3 挑戦艇決定シリーズ(Louis Vuitton Cup)出場チーム

5.4 Louis Vuitton Act


6 33rd America's Cup

7 出典・脚注

8 関連項目

9 外部リンク

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沿革

1851年、英国で開催された第一回万国博覧会の記念行事としてロイヤル・ヨット・スコードロン(Royal Yacht Squadron)が主催したワイト島一周レースに端を発する。このレースに米国からただ1艇参加した「アメリカ」号が優勝し、ビクトリア女王から下賜された銀製の水差し状のカップを自国に持ち帰った。その為、このカップは「アメリカ」号のカップ、すなわち"アメリカス・カップ"と呼ばれることとなった。その後「アメリカ」号のオーナー達は、「カップの保持者は、いかなる国の挑戦も受けねばならない」ということを記した贈与証書(Deed of Gift)とともに、このカップをニューヨーク・ヨットクラブ(New York Yacht Club)へ寄贈した。これに基づき1870年、第1回「アメリカス・カップ」が開催され、現在に至っている。

アメリカス・カップの本質は、贈与証書に基づくヨットクラブ間の国際親善レースである。しかし、莫大な投資、最新テクノロジーを凝縮したボートデザイン、セーラー達の神業的操船は世界最高峰のヨットレースと呼ぶにふさわしい。また使用するヨットは出場国での建造が義務付けられているため、もはや単なる親善レースに留まらない、出場国の威信を賭けた『スポーツという名の戦争』とも呼ばれている。これに対しニューヨーク・ヨットクラブは1983年の第25回大会において、自らのクラブから出場した「リバティー」号がオーストラリアの「オーストラリアII」号に敗れるまで、132年間に渡ってあらゆる国からの挑戦を退けカップを守り抜いてきた。これがアメリカスカップが文字通り"アメリカのカップ"とも称される由縁ともなっている。また、現在では参加各国の造船工学・建築工学材料工学流体力学航空力学気象学などの最先端技術や軍事からの応用技術までもが次々に投入されており、その結果として一大技術競争としての様相も持ち合わせる様になっている。

「リバティー」のスキッパーであったデニス・コナーは「カップを失った最初のアメリカ人」として米国中からの非難に晒されたが、オーストラリアフリーマントルで開催された第26回大会(1987年)に自らのチームを率いて乗り込み、見事にカップ奪回に成功した。コナーは一転アメリカンヒーローとして凱旋し、ロナルド・レーガン大統領によってホワイトハウスに招待され、"ミスター・アメリカスカップ"と称されるようになった。アメリカスカップの歴史、及びカップ奪回を掛けたコナーとアメリカの苦闘を描いた小説としては「至高の銀杯」(全4冊)ウォリック・コリンズ著 角川文庫 1991年刊 があるが、完結編にあたる部分が邦訳されていない。またリベンジを果たしたコナーの物語は映画「ウインズ」の題材にもなった。

しかし、1995年の第29回大会にサンディエゴ・ヨットクラブからチーム・デニス・コナーを率いて出場したコナーは、ニュージーランドのロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン(Royal New Zealand Yacht Squadron)から出場したチーム・ニュージーランドに破れ、カップは再び南半球に渡ることとなった。その結果コナーは「カップを2度失った最初のアメリカ人」という汚名を着ることとなった。ただこれについては「カップをニューヨーク・ヨットクラブに取り戻すには、一度他国にカップを渡さなければならない」という関係から(アメリカスカップのルール上、あるヨットクラブが防衛を続ける限り、同じ国の他のヨットクラブはカップを獲得することができない)、当時「カップがサンディエゴにあることを良く思わないニューヨーク・ヨットクラブがコナーに圧力をかけ、わざと負けさせた」という噂も流れた。[要出典]

チーム・ニュージーランドは続く2000年の第30回大会においてイタリアのヨットクラブ・イタリアーノ(Yacht Club Italiano)から出場したプラダ・チャレンジの挑戦を退けカップ防衛に成功するが、直後にチームは分裂、スキッパーであったラッセル・クーツを始め、タクティシャン、ブラッド・バタワースら主要メンバーがスイスのチーム・アリンギに移籍してしまう。

2003年の第31回大会ではスイスのソシエテ・ノーティーク・ドゥ・ジュネーブ(Societe Nautique de Geneve)から出場したチーム・アリンギが圧倒的な強さでチーム・ニュージーランドを破り、カップは大会史上初めてヨーロッパ大陸に渡った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki