アドレー・ユーイング・スティーブンソン2世(Adlai Ewing Stevenson II, 1900年2月5日 - 1965年7月14日)は、討論と弁説に熟達したことで有名なアメリカの政治家。二度大統領選で敗北した(1952年と1956年)。ケネディ政権下では国連大使を務めた。
目次
1 生い立ちと学歴
2 1952年の大統領選
3 1956年の大統領選
4 1960年の選挙と国連での活躍
4.1 ケネディとの関係
4.2 イエス・オア・ノー
5 死去
6 関連項目
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アドレー・スティーブンソン2世はロサンゼルスで政治家の家系に生まれた。祖父のアドレー・E・スティーブンソン1世は副大統領だった。イリノイ州ブルーミントンで成長し、チョート・スクールを経た後、プリンストン大学およびノースウェスタン大学を卒業した。1922年にプリンストンで芸術学位および1926年にノースウェスタンで法学位を得た。
大学卒業後、スティーブンソンはシカゴで弁護士業を始めた。1931年に連邦政府入りし、ニューディール政策を担当した。第二次世界大戦中は海軍省次官としてワシントンで働く。戦後は1946年と1947年に国連代表を務める。数年来政界入りを考えていたスティーブンソンは、イリノイ州知事選で現職のドワイト・H・グリーンに対し地滑り的勝利で圧勝した。イリノイ州知事としてスティーブンソンは州警察の組織再編を行い、不法な賭博を厳しく取り締まり、州間高速道の整備を行った。
スティーブンソンがイリノイ州知事在職中の1952年初め、ハリー・S・トルーマン大統領はスティーブンソンが民主党大統領候補を受諾するよう提案した。スティーブンソンは州知事選二期目に出馬することを約束したとして、大統領候補指名の受諾を初めは躊躇した。彼の断言にもかかわらず、党の代表は彼を選択し、彼はシカゴの民主党全国大会で大統領候補指名を受諾した。大統領選で彼は9つの州しか確保できず、選挙人団投票では442対89で敗退した。
1956年の大統領選挙では再選を目指すドワイト・D・アイゼンハワーに対し、民主党はスティーブンソンの他に上院議員 ⇒エステス・キーフォーバー、アヴェレル・ハリマン(キーフォーバーはジョン・F・ケネディを破って大統領候補の一人に名を挙げた)の3人が大統領候補の座を争ったが、スティーブンソンが大統領候補に指名され、前回選挙と同様アイクVSスティーブンソンの対決となった。しかし、今回も選挙人団投票で457対73と前回よりさらに差をつけられ敗退した。
1960年の民主党党大会前、スティーブンソンは民主党の大統領候補指名は求めていないが、別の指名要求は受けると発表。しかしまだ推薦候補者としての未練があり、身内の新人であるジョン・F・ケネディの指名演説を拒否し、これは後の両者の緊張関係の原因になった。ケネディが指名されると、非常に有名な演説家であったスティーブンソンはケネディのためにキャンペーン活動を行った。
ケネディが勝利するとアメリカの国連大使に任命され、熱心にアメリカの外交政策を支えた。スティーブンソンが最も有名になったのはキューバ危機の時である。1962年10月25日に行われた国連安全保障理事会の緊急会議においてソ連の代表団にミサイルをキューバに設置しているのか尋ね、ソ連大使ヴァレリアン・ゾーリンが存在しないと否定した後、それを反証する決定的な写真を見せ「(ミサイルがあるのか否かを)イエスかノーの一言でお答えしてほしい」と言い放ち、ソ連がキューバにミサイルを配備していることを世界中に知らしめることに成功した。