アトス山
(ギリシャ)
シモノス・ペトラ修道院
(英名)Mount Athos
(仏名)Mont Athos
面積335.63 km2
登録区分複合遺産
登録基準文化遺産(1),(2),(4),(5) ,(6)
自然遺産(7)
登録年1988年
拡張年
IUCN分類
備考
公式サイト ⇒ユネスコ本部(英語)
地図
世界遺産テンプレートを使用しています
アトス山(ギリシャ語:?ρο? ?θω?)はギリシャ語で ?γιον ?ρο?、または英語で"Holy Mountain"とも呼称される、ギリシャ北部の中央マケドニアにある山、半島。古典ギリシア語では、半島は Ακτ? と呼ばれた。
「聖山の修道院による自治国家」として知られ、ギリシア共和国領内において正教会の修道院によって大幅な自治が行われており、いわば「宗教共和国」ともいえる存在となっている。アトス山の修道院はコンスタンディヌーポリ総主教庁の管区である。
目次
1 概要
2 修道院
2.1 修道院
2.2 その他、行政府等
3 登録基準
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
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アトス山はギリシャ人が「聖なる山」と呼ぶ聖域である。ハルキディキ半島の最も東の「足」にあたるこの半島は、標高2033mに達するアトス山と、そこから連なる峻険な稜線によって形成され、海岸はほとんどが崖か岩場から成り立っている。ペルシャ戦争でアケメネス朝の遠征軍が遭難したことでも知られる。半島の幅は8kmから12km、長さは約40kmで、面積は385平方キロメートル程度。緑も深く、中世からの自然がほとんど手つかずのまま残っている。
かなり早くからキリスト教の修道僧が住み着いていたらしいが、文献にアトス山の記述が現れるのは9世紀以降のことである。伝承によれば、生神女マリアが旅の途中で嵐に遭ってアトスの海岸に避難したとき、その美しさに心惹かれ、自らの土地としたとされている。現在では20もの修道院を擁する東方正教の一大中心地であり、バチカンと同じく宗教中心地として自治を行っているが、アトス山はより厳格な瞑想と祈りの場であるため、バチカンのような経済的活動は行っていない。
ギリシャ本土と陸路でつながっているものの、ウラノポリスから船か徒歩によってのみ「入国」が可能である。訪問者の数と滞在期間は限定されており、アトス山に入る前に入国許可証を得ることを要求されるが、許可分配手続において正教徒は優先される。また、1406年以降、女人禁制となっているので、女性は入国できない。アトス山の居住は、18歳を過ぎた男性の正教徒のみが許可される。そのほか、修道士ではないが宗教的な護衛者がおり、政庁カリエスで修道士でない人々を補助する。現在の人口は約2,250である。
ヘロドトスとストラボンによると、アトス山には当時から人が住み着いており、いくつかの都市があったことが述べられている。しかし、これらの都市の位置は特定できておらず、修道士がこの土地に住みはじめた8世紀末から9世紀初頭にはすでに放棄されていたらしい。最初に住みはじめた修道士については、当時のアトス山の状況を記録した文献がなく、その詳細は不明である。
9世紀中期まで、アトス山には修道僧の草庵が散在するにすぎなかったが、862年、テッサロニキのエフスィミオスが、アトス山で活動する修道士の集団(ラヴラ)の長となり、修道院設立の先鞭をつけた。870年頃には、アトス半島の付け根にあたるイエリッソスに、ヨアンニス・コロヴォスが最初の共同居住型の修道院を建設している。その後、961年に聖アタナシウスが東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスから勅許を得て、アトス山の麓にメギスティ・ラヴラ修道院を建設すると、アトス山は修道院の建設が活発に行われるようになった。1001年には46の修道院を数えるほどになり、多くの修道院が半島の外に荘園を抱える大領主の様相を呈していた。聖アタナシウスのイコン(メギスティ・ラヴラ修道院)
1204年、第4回十字軍によってラテン帝国が成立したことにより、テッサロニキ王国に組み込まれたアトス半島は、ほとんどの修道院が荘園を没収されてしまった。東ローマ帝国が再興されるとこれらの荘園は返還されたが、ミカエル8世パレオロゴスが画策した1274年の東西教会の統一に反対したため迫害を受け、さらに1305年には、オスマン軍に対抗するためにアンドロニコス2世パレオロゴスが雇ったカタルーニャ、アラゴンの混成傭兵がトラキアからマケドニアを略奪し、修道院もこの標的となって荒廃した。また、14世紀中期には、オスマン軍の略奪行為もしばしば行われることがあったため、一部の修道士はアトスを離れ、他の地域に修道院を設立している。1356年に設立されたメテオラもそのひとつである。
しかし皮肉にも、東ローマ帝国の影響力が著しく衰えたために、かえってブルガリア帝国やセルビア王国、モルダヴィア、ルーマニアなどの東欧諸国からテッサロニキ周辺部、ストリモン川流域の荘園の寄進が行われるようになり、修道院は再び活力を得ることになった。グレゴリオス・パラマスによって提唱される静寂主義の中心地となり、帝国内で大きな宗教論争を引き起こす。1382年になると、アトス山はオスマン帝国の勢力下に入り、1453年には東ローマ帝国が滅亡。