アトサヌプリ(あとさぬぷり)は、北海道弟子屈町にある第四紀火山である。標高は512m。活火山に指定されている。硫黄山(いおうざん)とも呼ばれる。
硫黄山の名は、狭義には明治年間にアトサヌプリの麓にあった硫黄の鉱山のみを指すことがある。当山付近をさす地名には「跡佐登」の字を用いる。
⇒ウオッちず ⇒Google Map アトサヌプリアトサヌプリ溶岩ドーム 酸性の火山噴出物の影響で周辺は丈の低いハイマツとイソツツジしか生えていないガス噴出の様子アトサヌプリ周辺のイソツツジ群落(2006年7月初旬)
目次
1 山名の由来
2 火山の歴史
3 特徴
4 噴火活動時期
5 硫黄鉱山
5.1 歴史
6 観光
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
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アトサヌプリの名は、アイヌ語の「アトゥサatusa(裸である)」と「ヌプリnupuri(山)」に由来する。つまり、「裸の山」の意である。アイヌ語研究者で自身もアイヌであった知里真志保によれば、北海道、南千島において、熔岩や硫黄に覆われた火山を、アイヌはatusa-nupuriと呼んだ[1]。
アトサヌプリは屈斜路カルデラの中に存在する活火山で、屈斜路カルデラの最後の大噴火(約3万年目)以後に生成した後カルデラ火山に相当する。狭義のアトサヌプリは写真に見える溶岩ドームを指すが、火山学的には周辺にある同様な形の溶岩ドームと直径約4kmの小カルデラを含むアトサヌプリ火山群として定義される。
3万年前以後の活動で一旦成層火山を形成し、その後火砕流を伴う噴火で直径約4kmの小カルデラができた。カルデラ内にマクワンチサップ(573m)、サワンチサップなどの溶岩ドームができた後、最後に1500年前以後の火山活動でアトサヌプリ溶岩ドームが完成した。最近の噴火は数百年前に起こったもので、このときの噴火で爆裂火口「熊落とし」が出来た。[2]現在アトサヌプリ火山群は活動度の低い「ランクC」の火山と認定されている。
地質は安山岩およびデイサイト、流紋岩。サワンチサッブ、マクワンチサップなどの溶岩ドーム群からなる。噴気活動は活発で大規模に噴出ガスを排出し、写真でも見えるように山体のあちこちから火山ガスが噴出している。数箇所の噴気孔では業者が卵を加熱しており、観光客に販売している。
火山から出る硫黄成分のため山麓周辺部の土壌は酸性化しており、一般に広く見られるエゾマツやトドマツ等が生育できない。荒地に適応したハイマツと、酸性土壌を好むイソツツジが優勢であり、7月初旬にはイソツツジ群落の一斉開花が見られる。また、地熱が高い部分は冬でも雪が積もることがない。有名な川湯温泉の硫黄泉はアトサヌプリを起源としている。
噴火活動時期
3万年前?
現在、気象庁による観測が行われている。
アトサヌプリの硫黄鉱山は、明治時代の士族反乱(西南戦争等)における国事犯収容施設(集治監)の建設、北海道開拓の停滞を打破したい開拓使の方針、安田財閥による鉱山開発の意向など様々な思惑が結びついて開発されたものである。鉱山としての命脈はわずかな期間であったが、集治監の設置や鉄道の建設などを通じ行われたインフラの整備は、後の釧路地方開発の礎となった。採掘した鉱石の積み出しは、アトサヌプリの東麓敷設された鉄道により行われた。
歴史
1876年 現在の釧路市の網元佐野孫右衛門が開発に着手(後に開発は頓挫し、権利は函館の銀行家の手を経て、安田財閥へ移る)
1884年 現在の標茶町に釧路集治監が設置。収容者による鉱山開発が活発化する。
1886年 標茶町?鉱山間に安田鉱山鉄道の敷設を着手、同年中に完成。後に釧路鉄道として鉱石輸送が始まる。
1890年頃 硫化水素中毒による斃死者(へいししゃ)が増え、看守も含めて200人近くが倒れたことから労働条件が問題となる。
1896年 集治監の収容者による鉱山労働が中止。
1897年 資源枯渇のため採掘が中止。
観光硫黄山で売られる温泉卵の例 この節は執筆中です。