アッティラ

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アッティラ
Attila
フン族とその諸侯の王
死後800年後の1300年頃に描かれたアッティラの想像図
出生406年

死去453年

子女エラク、デンキジック、イルナック 
 ・話・編・歴 

アッティラ(Attila, 406年? - 453年 )はフン族の王。原語ではアキラ、ドイツ語ではエッツェル(Etzel)とも。現在のロシア・東欧・ドイツ北部を結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の大王を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と恐れられ、本人もこの呼称を好んで用いた。出生についてはフン族全体と同じく詳しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルク系民族に属するモンゴロイド(黄色人種)だったのではないかと見られている。

アッティラには多数の妃と子があり、後継者を指名せず急死したのが災いし、帝国は後継者争いにより分裂した。
目次

1 生涯

1.1 フン王への即位

1.2 アッティラの台頭

1.3 カタラウヌムの戦い

1.4 突然の死


2 年表

3 評価

3.1 破壊者か英雄か


4 出自

5 エピソード

6 関連項目

7 参考文献

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生涯


フン王への即位アッティラ王の宮殿。フン族以外にもローマ式の装具を身に纏う将校がいるなど、帝国が複数の文化圏と接触していた事を伺わせている。

アッティラは西暦406年、フン王ルーラの甥として生まれた。当時、既にフン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、度々東西ローマの領内に入り込んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。また同じ蛮族との戦いでも、東進の過程でバルト海に居たと思われるゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士として従えるなど、多くを従える立場にあった。後に多民族国家としてローマの後裔を担うフランク王国もこの時はフン帝国の従属国の一つに過ぎなかった。

アッティラは幼い時から兄弟のブレダと共に宮殿で育てられた。その時に西ローマ帝国から人質として送られていたローマ系貴族の子息、フラウィウス・アエティウスと知り合っている。後にアッティラをカタラウヌムの戦いで破ることになるアエティウスとアッティラは親密な間柄であったという。434年、叔父ルーラが死去すると、ブレダと共に王位に付いた。初めのうちは所領を二分割して統治していたが、程なくしてブレダを狩りの最中の事故に見せかけて謀殺し、単独の王となった。436年にはブルグント王国に侵攻し、グンダハール率いるブルグント軍を壊滅に追い込んでいる。


アッティラの台頭


カタラウヌムの戦い


突然の死


年表フン帝国の最大領域

433年 - ローマへの侵入を繰り返していたフン族の圧力に耐えかね、西ローマ帝国がフン族にパンノニア(現在のハンガリー)を割譲。

434年 - 叔父である国王ルーアの死後、兄弟ブレダとともにフン族の王となる。支配下の諸侯はそれぞれ分割して統治した。

445年 - ブレダを殺害しその所領を奪い、単独の王となる。東ゴート族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いてローマ帝国にも侵入を繰り返して、短期間でライン川ドナウ川カスピ海に渡る大帝国を築き上げる。

447年 - 東ローマ帝国に侵攻し賠償金を獲得。

451年6月20日 - ローマ帝国の征服を目指しガリアカタラウヌムで、幼少の頃人質としてフン族に育てられたローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ西ゴート連合軍と戦う。しかし、アエティウスのフン族の戦術の裏をかく巧みな戦術に敗れる。

452年 - 戦略を修正し、直接西ローマ帝国に侵攻。北イタリアミラノなどの都市を陥れ、西ローマ帝国から莫大な賠償金を手に入れる。しかし進軍を止めることなく首都ローマの征服を目指すが、教皇レオ1世の説得によって撤退したとされている(実際は、フン族の兵士にマラリアが蔓延したとする説が有力)。

453年 - 40歳のアッティラ、自らの婚礼の酒宴の席で泥酔しそのまま死亡(鼻血による窒息死と伝えられるが、脳溢血により死亡したとも言われる)。

454年 - アッティラの急死で東ゴート族とゲピダエ族の生き残りが蜂起。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki