ぜんじろう
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ぜんじろう(1968年1月30日 - )は、日本お笑いタレント吉本興業所属。兵庫県姫路市出身。血液型B型。本名:金谷 善二郎(かなたに ぜんじろう)。兵庫県立姫路南高等学校卒、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科中退。師弟関係の上では、上岡龍太郎の弟子という位置付けにある。
目次

1 来歴

2 受賞歴

2.1 月亭かなめ&ぜんじろうでの受賞

2.2 個人での受賞


3 出演

3.1 テレビ番組

3.2 アニメ

3.3 ラジオ番組

3.4 映画

3.5 Vシネマ

3.6 CM

3.7 新聞


4 楽曲

4.1 ディスコグラフィ

4.2 コーラス参加


5 著書

5.1 自著

5.2 寄稿


6 関連項目

7 外部リンク

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来歴

親元から離れたいがための口実で、高校3年生の時に大阪芸術大学デザイン学科の入学試験を受験。高校時の成績は451人中の451番。入試の日まで大学がどこにあるのかも知らなかった。入試会場に遅刻して入場し、花瓶を描くという実技試験の内容に対し、「どうでもええわ」と花瓶のみならず教室全体までも絵にした。面接試験時に面接官の教授から「なぜ周りの風景も書いた?」と聞かれ、「見る物全てが芸術ですから」と答えた。それに驚いた教授が「いつから絵を?」と尋ねると、今度は「中2の時スペインに行ってからです」と答えた。教授から「私もだよ!」と賛同され、そして、倍率30倍という難関の同校入学試験に易々と合格した。嘘をついて合格を勝ち取ったことから「自分は口で仕事が出来るんだ」と思い込み、同校を入学後わずか2日で退学した。本人のインタビューによると、「ハナからデザインに興味などないし、通う気などなかったが、親が大学に支払う授業料が欲しくなり、自分の懐に入るように細工していた。おかげで仕送りも含めて、バレるまで悠々自適の生活」であったそうだ。

大阪で友人と遊んでいた時に偶然上岡龍太郎に出会ったが、ぜんじろうも友人も上岡を浜村淳と間違えていた。「あれ? 浜村淳とちゃうで」と言っている内に、上岡の方から「君ら、握手したいんか?」と声を掛けてきた。その後また偶然に上岡に会う機会があり、「何かの縁やな」と一緒にお茶を飲む事になった。その場でウケ狙いで「弟子にして下さい」と頼み、断られると思っていた所、「ええよ」と返されてそのまま弟子になってしまう。弟子修行時代を経て、吉本興業に所属し、月亭かなめと漫才コンビかなめ・ぜんじろうを結成。ボケかかっていた林正之助吉本興業会長が、かなめ・ぜんじろうの漫才を見て「エンタツ・アチャコの再来じゃ、こいつらを売れ」と言った鶴の一声の大プッシュもあって、かなめ・ぜんじろうは各局の新人賞を総ナメにし、ABC新人漫才落語コンクールで優勝候補大本命だった130R板尾創路ほんこん)を押しのけて受賞し、関西若手芸人のトップグループに位置した。しかし月亭かなめが鬱病を発症するなどコンビは波に乗れず解散、相方は解散後廃業している。

コンビ解散後、深夜ラジオの仕事がメインになる。裏番組の『誠のサイキック青年団』を実況中継して「誠おもんないんじゃ!」と叫ぶなど過激な笑いを追求している内に、アシスタントなどのスタッフが「ついていけない」と辞めていき、肝心の舞台での芸がウケない事もあって、次第に吉本と溝ができてしまう。舞台の主戦場は、うめだ花月と心斎橋筋2丁目劇場だったが、2丁目劇場における当時の客は「ダウンタウンで笑ってきたウチらを、アンタらが笑わせられるのん?」と客が笑わない状態だった。そんな客なんか全員しんでまえ! という意味を込めて、ぜんじろう発案で「しねしね団」を結成する。これが後に吉本印天然素材と発展した。しかし会社の意向で天素をクビになり、元のラジオのみの仕事という生活に戻る事になる。その後、大崎洋の薦めでHIP HOPアーティストとして活動し、月亭可朝の『嘆きのボイン』のカバーに携わる。ラジオリスナーに外人タレントを呼ぶイベント会社の人がいて、アイス・キューブの前座を勤めたりした。ピンでの活動当初は、顔と声が似ているという理由で“平成の明石家さんま”という触れ込みで吉本興業から売り出されていた。

その後、関西ローカルの深夜番組『テレビのツボ』で司会に抜擢されたことにより、瞬く間に関西での知名度が向上した。一時期は『屋台の目ぇ』や『ぜんぜんこども』など複数の司会番組を抱え、多忙極まる日々を送っていた。ぜんじろうよりも若手のお笑いコンビ・ナインティナインは大阪時代、一躍売れっ子になった彼からひどいイジメを受けていたという事実を木曜深夜の『オールナイトニッポン』で告白したことがある。本人の近年の番組やネット媒体での発言によると、芸人としての後輩弄りだったと語っている。

関西での知名度向上を機に、東京へと進出し、全国ネットの番組を数本レギュラーに持った。しかし、東京で抱えた番組は全て降板となり、全国区進出に失敗。再び大阪でローカル番組のレギュラーの仕事を抱えるものの、これらも短命のままに終わってしまう。かつての溌剌さは全くと言っていいほど鳴りを潜め、完全にやる気を無くしていた。

そんな状態を打破するため、1997年からは活動の場を海外へと移した。修行と称し向かった先は、頼る者も全くいないアメリカ合衆国シカゴ


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki