あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)とは、1972年2月19日に始まる、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が起こした事件である。
目次
1 概要
2 事件の発端
3 警察の対応
3.1 初期対応
3.2 鎮圧作戦
4 事件の収束
5 事件が長期化した要因
6 事件後の情勢
7 関連作品
7.1 警察側
7.2 連合赤軍側
7.3 報道機関側
7.4 第三者による作品
8 関係者のその後
9 エピソード
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
//
連合赤軍のメンバー5人(坂口弘、吉野雅邦、坂東國男、加藤倫教、加藤元久)が、浅間山荘の管理人の妻を人質に10日間に渡って立てこもった。
2月28日に警察が浅間山荘に強行突入。死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出したが、人質は無事保護され、立てこもり犯5人は全員逮捕された。
突入の様子は、テレビで生中継され、その日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、人質救出の瞬間は民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率90%弱を記録した。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。これは2000年代に入った現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
なお、現場となった保養所名は「浅間山荘」が正しいが、マスコミが事件発生当時から「あさま山荘」と表記したため、事件名としては一般的に「あさま山荘事件」とされることが多い。以下の文中では保養所名については「浅間山荘」、事件名については「あさま山荘事件」と表記する。
当時、連合赤軍は栃木県真岡市の銃砲店を襲って銃と弾薬を手に入れて逃走を続けていたため、警察はその行方を追っていた。
警察に追われていた連合赤軍のメンバーは、群馬県の山岳地帯に拠点「榛名山ベース」を構え、潜伏して逃避行を続けていたが、警察の山狩りが開始され、また外部からの援助等も絶たれ組織の疲弊が進んでいた。1971年の年末から、山岳ベースにおいて仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ猛烈な思想点検・討論を行うようになり、その末に思想改造と革命家になるための「総括」と称しリンチ殺人事件を起こす(山岳ベース事件)などして内部崩壊がすすんでいた。
警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオのニュースで知ると、群馬県警の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県ではまだ警察が動員されていないと思われていたためである。
彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった(浅間山は群馬県と長野県の県境にあり、軽井沢町と佐久市はその山裾にある)。軽井沢レイクニュータウンは新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、彼らはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なかった。立て篭り先として浅間山荘が選ばれたのは偶然であった。
2月19日の正午ごろ連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき荘に侵入。台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきたことを察知し発砲した。機動隊側もこれに応戦。15時20分ごろ連合赤軍のメンバーは、銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき荘を脱出。さつき荘の近所にあった浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。当初、坂口は管理人の妻を人質として、警察に連合赤軍最高幹部の森恒夫と永田洋子の釈放と、浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野はそれに反対し、断念。車を奪って逃げることを提案したが、車のキーは出掛けている人質の夫が持っているため断念。こうして浅間山荘での籠城が決まっていった。
連合赤軍は山荘内の食糧を集めた。食糧の内訳は米20キロ、砂糖4キロ、味噌1キロ、小麦粉1キロ、醤油、コンビーフ缶5個、味付け海苔半缶、みかん10個、りんご5個、カステラ、餅飴、飴玉、えびせん、羊羹、せんべい、角砂糖、水あめ、ウィスキー2本、人参酒1本、野沢菜と大根と白菜の漬物ポリ容器各1個ずつ、ビール20本、日本酒の一合瓶15本、コーラ・ジュース類50本。犯人グループは1ヶ月は持つと考えていた。警察も、兵糧攻めは無理と判断、説得工作を開始した。
2月21日、犯人5人は盗聴や人質に身元が割れないようにコードネームを決めた。コードネームは坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫は「赤城」、加藤元は「霧島」であった。