織田信長
★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[Uncyclopedia|▼Menu]
79 / 147 Lines.
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

… 経歴
前世

織田信長の前世は、身分的にはごく普通の人間だった。ある日、彼は深いジャングルの中で飢えたを発見し、その虎を哀れんだため、自らの身を岩山から投げ捨てて虎を救おうとした。ところが、投げ捨てた肉体は地面に叩き付けられても傷一つ付かず、その首に虎が必死に牙を食い込ませても、噛み切るどころかマッサージになって凝りをほぐしてしまう有様だった。

かくして、虎を助けるつもりで虎の生き残る力を使い果たさせてしまい、しかも自分は幽体離脱して戻れなくなってしまった間抜けな前世は、次の一生では神にも勝る魔王になろうと決意するのだった。
信長誕生から尾張統一まで

織田信長は天文3年に尾張国で生まれる。記録によると、母体に通常の3倍程の苦痛を残し、生まれるとすぐに立ち上がって、右手で自分の検閲により削除を、左手で天を指差し、キリストに歯向かうように13歩進んでみせた後、幸若舞「敦盛」の一節を口にしたという。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」

これには誰もが絶句した。ある者は彼を仏陀の生まれ変わりだと言い、またある者は彼を悪魔の子だと言った。キリストの生まれ変わりだとする珍説もあったが、ムハンマドの生まれ変わりだという声はどこからも上がらなかった。性質が一番似ているにもかかわらずである。

ともあれ、奇跡のような誕生をした信長の将来は、良くも悪くも注目を集めることとなる。

天文20年、信長は父・信秀を亡くすが、その葬式で信長は父の祭壇に大量の分泌液をぶっ掛けた(近年はPTA的思想により「抹香をかけた」とされている事が多い)。この一件で信長は「戦国史上最強の馬鹿」の地位を不動のものとし、尾張国内で一躍有名人となる。この行為は馬鹿を装うという緻密な計算によるものであったが、信長の教育係であった平手政秀は冗談が通じなかったため、信長の数々の奇行や信秀を侮辱する行為に責任を感じ、天文22年に自刃してしまう。信長は彼の自害を悲しみ、盛大に弔ったと伝えるが、近年では計画が狂ってしまった事にいきなり絶望して、涙が出たのを弔いでごまかしたという邪推もなされる。

信秀死去により、信長はその家督を継ぎ、尾張国の覇権をめぐって信秀と対立していた織田信友は信長と対立する。信友は信長の弟・信行に家督を継がせるべく、信長を謀殺する計略をたてる。信友に実権を握られていた斯波義統はその計画を信長に密告するが、これを知って激怒した信友は、義統の子・義銀とその兵が川狩りに出ている隙に、義統を殺害する。父の死を知って助けを求めに来た義銀からこの話を聞いた信長は、この事件を大義名分に信友を罪人として殺害した。

お気づきであろうが、全ては信長の計画通りである。信長は、義統の密告をそれとなく信友に気付かせ、さらに義統には、義銀らを川狩りに出させるよう仕向けていた。これにより、信長が信条とする公の正義を守りながら信友の殺害に成功し、さらに義銀を都合の良い手駒として取り入れたのである。

斎藤道三の敗北・死去は信長の失敗とも言われるが、実際には無能を装うためにわざと手出しを遅れさせたのか、応援を寄越す前に敦盛を舞っていて遅れてしまったかのどちらかである。ともあれ、この道三の死は「稲生の戦い」の原因となった。信長の弟にして敵となった信行は、戦力差で優位に立っていたが、それも信長の悪運とダース・ベイダーのような力には敵わず、結果は信長の勝利に終わる。

辛くも命を赦された信行は、その後も謀反を起こそうと目論むが、この時すでに柴田勝家にも見切りをつけられており、あっさり計画を信長に密告される。馬鹿な信行なら本気でやりかねないと考えた信長は、仮病を使って信行を誘い出し、ノコノコやってきたところを追い詰めて死なせる。一部始終を目にした柴田勝家は、自分がかつて推していた信行が救いようのない馬鹿者である事に気付き、逆に馬鹿だと思っていた信長は、むしろ天才的な戦略家であり、敵を油断させるために馬鹿のふりをしていたのだと悟る。彼はその後一生、信長に仕えることを誓うのだった。

義銀と吉良氏がその後、信長討伐を謀ることも、信長自身は見通していたといわれる。だが、勝負を急がない我慢強さとここぞという時の勝負の早さにより、信長はとうとう尾張を統一する。信長は満足そうに振舞っていたが、思っていたほど苦労しなかったことに内心拍子抜けしていたらしい。

※出てくる名前が「信○」ばかりで混乱するのは仕様である。
桶狭間の戦い 信長と義元が桶狭間で対決する直前の会見。義元は余裕綽々のようだ。

永禄3年、今川義元は尾張へ侵攻した。信長自身の強さはさておき、軍勢は義元軍よりはるかに少ないため、領土拡大のためには信長が一番楽な相手だと思っていたようである。他に、義元は生粋の中二病患者で、同じ中二病患者であり第六天魔王を嘯く信長が気に入らなかったとも言われる。

義元の軍勢は圧倒的な戦力を持っていた。信長は真っ向からの勝負は難しいと判断して、とりあえず死ぬ前にと敦盛を舞った後、戦勝祈願をして出陣した。間もなく豪雨にみまわれ、視界の悪い中で敵軍を発見し、奇襲する。最期は派手にと、そのまま金魚の餌にできるほど敵をズタズタにするつもりだったが、遭遇したのが幸運にも義元のいた本隊であり、それを討ち取って勝利を収めた。

この戦いの後、徳川家康と同盟を結んだ信長は、美濃攻略を順調に進めていく。義龍を呪い殺して斎藤氏を混乱に陥れたり、浅井長政を抱き込んだりといった外堀作戦の末、永禄10年ごろには美濃を獲得した。
信長包囲網前の経緯 貫禄のある顔つき

信長は侵略が存外に楽しいことに気付き、「天下布武」というスローガンを掲げ、天下を統一する事を目標とした。

室町幕府足利氏は三好氏に良い様に操られており、14代足利義栄は実はマネキンだったのではないかと言われるほど、実権は松永久秀と三好三人衆に握られていた。

辛くも京都を逃れた足利義昭は、朝倉義景ら頼りない連中に頭を下げて回るも、いずれも将軍家復興の助力はしなかった。義景にいたっては、「果報は寝て待て」とか「Let it be...」とか「Que sera sera...」とか言うばかりであった。

そこで義昭は織田信長に三好氏の討伐を求める。信長はこれを承諾し、武田信玄ら周辺諸国と同盟を結ぶなどしてまず足場を固めた。そして義昭を15代将軍へ推し、京都へ行く。

織田軍の力で程なく観音寺城を落とし、この力に恐れをなした松永久秀らは信長に屈する。やがて三好の軍勢も逃亡し、池田勝正も降伏。あっという間に京都をものにした織田軍により、第15代将軍足利義昭を立て、織田政権が始まる。信長は勧められた副将軍の地位を断り、さっさと義昭を奈落の底へ突き落とす計画を進行させるのだった。
第一次信長包囲網

その後、信長は「殿中御掟」などを発令して足利義昭の権力を制限させようとする。これは義昭にとって、信長に対する不満を増長させるものであった。

信長は朝倉義景に、京都へ来いという指示を送るが、義景は「そのままでいい(Let it be...)」と拒否。再度同じ指示を送るも、今度は「なるようになる(Que sera sera...)」と拒否。腹を立てた信長は徳川家康と組んで義景討伐に乗り出す。ほとんど何もしない義景を相手に、織田・徳川軍は順調に城を落としていくが、同盟を結んでいた浅井長政に裏切られて背後を急襲される。織田軍はやむなく京都へ撤退し、態勢を立て直す。

織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の戦いが姉川を跨いで展開される。浅井長政の軍は織田軍に猛攻を仕掛け、信長は敗戦間近に追いやられていたが、このとき信長は長政を降伏させて再び手元に置く方法を必死に考えていたようである。

一方、朝倉軍は勢力で徳川軍を遥かに上回っていたが、義景は「このままでいい」「なるようになる」と全くやる気がなく、猛攻を受けてあっさりと敗退する。その後、浅井軍には信長の援軍が隙を突き、とうとう長政も敗退するのだった。この戦いの後から毛利、武田、上杉といった多くの戦国大名らが信長に反発を示す。俗に言う信長包囲網である。

元亀3年、信長は北近江へ進軍。浅井軍と壮大な睨めっこを繰り広げる。織田側は5万にも及ぶ軍勢だったといわれ、浅井軍は応援に駆けつけた朝倉義景の軍勢をあわせても劣勢だった。

その頃、足利義昭の要請で武田信玄が動く。三方ヶ原では織田の勢力を加えた徳川軍が武田軍の背後を狙おうとするも、返り討ちに遭って敗退する。これは城に籠っていた徳川軍を誘き出して討つという、武田軍の作戦だった。

このまま浅井・朝倉軍によって織田軍本陣が北近江に留まり続ければ、武田軍の勝利はもはや確実であったが、ここでなんと義景は、疲れた、雪が降って嫌だと言って全軍撤退してしまう。長政は呆気に取られ、織田軍はこの間に大手を振って美濃へ帰ってしまうのだった。武田信玄はこれに怒りを爆発させ、義景に再度 兵を出すよう呼びかけるが、義景はやはり「そのままでいい」と考えたらしく、沈黙を貫き通す。


話題の着エロボイス!
今なら無料ダウンロード♪

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[Wikipediaで表示]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:25 KB
出典: へつぽこ實驗ヰキ『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
担当:Mamenoki