中二病
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… 病状とお薬

近代病になると全てが同じものに見えてしまい、解釈に固執してしまう。そして〈解釈のループ〉から出られなくなるのである。抜け出すためには、特効薬である〈構造主義〉を服用して下さい。〈脱構築〉は服用が難しいので注意して下さい。
近代の恩恵と病理

区分と分類に基づく合理主義が、近代の生んだ価値である。しかし、近代は数々の失敗も繰り返して来た、その失敗に陥った者が近代病である。近代病を克服するために現代思想がある。近代病の治療は[越境性]である。分類を乗り越え、最果ての塔へ、次元の狭間へと、辿り着こうとする思考法だ。また20世紀を経て科学は、近代科学から現代科学になった。量子力学はその象徴ともいえ、近代から現代への科学にステップアップしたのだ。中二病を紐解くカギは現代にあるのだ。

近代病が重症になると『現実と虚構の区別が付かなくなる』という思考に駆られてしまう。そもそも現実と虚構の境界線など曖昧なのだ。ゲームや漫画やアニメに時間を費やし、お金も消費して、ニュースなどの情報を元に投票や購買の日常を送る日々。どこが現実と虚構の境目なのかは分かったもんじゃない。

例えば、『世界の中心で愛を叫ぶ』の影響で(ちなみにこの書名はエヴァンゲリオンTV放映最終話『世界の中心でアイを叫んだケモノ』のパクリであり、さらにこれが『世界の中心で愛を叫んだけもの』というSFのパクリであるため、いわゆる孫引きになっている)、その年は骨髄バンクのドナー登録者が一挙に増えた。『世界の中心で愛を叫ぶ』はフィクションだぞ。なのに現実に影響を与えている。そして頭の中で「おれは現実と虚構の区別が付いている」「あいつらが現実と虚構の区別がついてない」という認識にハマり、抜け出せなくなると、いよいよ、現実と虚構の区別がつかなくなり、オウム真理教みたいに地下鉄でサリンをまき散らしたり、ワールドトレードセンターに飛行機を突っ込ませたり境目がなくなる。当然だがタワーは飛行機が突っ込むためにあるのではない。近代病はテロルの危険があるのだ。
現代病

しかし、現代病もあるので気をつけなければならない。現代病になると、どこにも境界線がない事に気付き、どの境界線も昔の人が勝手に決めただけで、自分がそれに従う理由がないのだとわかる。すると自分の内面に逃げ込んでしまうのだが、それさえも規定されており予見されている。どこにも自分の居場所がない状態が寂しくなり、どうしようもなくなる。自分が日本に留まる理由がない事に気付き、世界は身勝手の固まりだと気付いた時。それが現代病である。現代病はアノミーを引き起こす危険があり、孤独に苛まれ自殺する危険と、孤独を利用したファシズムの危険があるのだ。都市社会では中二病を引き起こしやすい。伊集院光も都市出身だ。さらに百年に1人邪気眼を持つのが現れるという 発見されたオーパーツである。
部族社会

中二病のような症状は、部族社会では当たり前の様に見られる現象であり、心臓を食べたり、動物の目玉をお供えする。それは儀式の形で行われる。
宗教性

中二病は宗教の一種ともされ、西洋では神の前で懺悔して罪を告白するが、東洋では自らの恥を、告白する手法として中二病を使う、みんなに気軽に伝える様にする。これにより精神の一体化を図り、共同体の力を強固とする、準不文律による共通認識である。
古典

古典的には「つまらない物ですが」という言葉に代表される、《へりくだり》《貶し》の作法の一種である。他にも〈貶し名言〉や〈オタクはきもちわるい〉など、日本には独特の貶し文化がある。なので、本当に蔑視していると勘違いしてはならない。本当に勘違いする人々は、まだ日本独特の風土を理解してはいない。一般的に「空気を読む」と言われる。ジョークや笑いは文化水準を表すバロメーターだ。

なお、「つまらない物ですが」という発言の[意味]が理解されにくいので、平成期において作法教室やテレビ番組では、使用を控えるように教えてる様だが、教えてる奴らは伝統の何足るかを分かってない。長い時間をかけて育まれた伝統文化は、そんな簡単に変わる物ではない。地域の文化風土を全然分かってない奴らであり、一体、作法の何を教わってきたのだと言いたい。「つまらない物ですが」という短い言葉の中に、日本人の精神構造が表れている。構造は貶し文化となり、さらには「中二病」からも、姿を垣間みる事ができる。異文化に日本の文化を説明する上では、大変重要な言葉であり、「中二病」は[系譜]を受け継いでいるのだ。それすなわち、形式に現れる美なのである。形式美が日本の伝統だ。意味を要求するな。
言語学

「つまらない物ですが」は空間を支配する言葉である。20世紀の言語学でも、パフォーマティブとメタの違いを説いている。発言を額面どおり捉えるのではなくパフォーマティブの真意を捉える。すると空間に《侘び》《寂び》が発生するのだ。真意を失った言葉は、名実共に《つまらない物》になってしまう。

ここに一つの循環がある。「つまらない物」から始まり、伝わらないので否定する、uncyclopediaで伝統を訴える。『反』に始まり『否定』を通じて『伝統』へと回帰する。ここから中二病と同じ構図が垣間みれましたか?



意味病(ウィキペディア編)

なぜ、アンサイクロペディアの方がもっともらしくて、ウィキペディアの方がパッパラッパーなのかと言えば、それはウィキペディアが、まるっきし近代病だからである。

近代病の人々は、意味を過剰要求する傾向にもある。ウィキペディアの執筆者も「意味がない!」「意味不明!」と高らかに騒ぐのだが、意味があるとは限らないのは当然であり、必ずしも意味に辿り着けるとも限らない。そもそも娯楽、創作物、芸術、叙事詩に意味を要求するのが狂っているのである。

「人魚姫は存在しない! 居るのなら連れてこい!」「桃から人が生まれるはずがない!」「非科学的である!」「非ィ科学的だ!!」

と騒ぎ立てるほどにナンセンスでパラッパラッパーな主張である。

しかし、彼らは狂っている自覚ができない。なぜならば文明や文化と言うものは、内部で営む人々には自覚できないのである。外部や他の文明・文化と比較して初めて認識できるのだ。なので認知できないのは自然と言えば自然である。むしろ自覚できたら不思議である。

この事からも、ウィキペディアには文化がある事がわかる。すなわちウィキペディアはコミュニティーなのだ。しかし、コミュニティーの自覚が持てないのは、共同体が閉鎖的である事の証明であり、開放感がねぇーんだ。議論すれば自覚の糸口になるのだが、議論ができない環境なのである。まったく呆れた管理だ。

この傾向は萌えでも見られる。折角のインターネット叙述を追い出してしまった。もう何とかしてやって下さい。誰か彼らを助けてあげて。今ではすっかりウィキペディアそのものが中二病になってしまった様だ。困ったもんだ。観察者を取り込むのが中二病の本質なのだ。解除する為には中二病と同位階層の、哲学や文学をぶつけないと解除できん。その点、アンサイクロペディアは自己言及に慣れているので強みとなる。
生きる《意味》

文化の違いの中では〈意味〉の優先順位(プライオリティー)は下がる。『意味』は形式的な役割しかなくなる。つまり、1万円札を北極に持って行っても紙切れにしかならんのである。差異が少なければ、それだけ文化の親和性が高い。
寓話

アリさんの世界でも、働き蟻の中で一定数は遊んでいた方が、全体の効率は良くなる。つまり全員おなじ方を向いて走るより、一定数の蟻は別の事をしていた方がよい。コミュニティーの多くは構成員を変えない方がよいが、一定数は変化があった方が良い。来客歓迎にしよう。共同体は、一様よりも多様の方が強いんだぞ。
歴史を問う事の意味

歴史を検証する作業は、過去の「真実」を知ろうとする試みである以上、多少なりとも客観的な成果が挙げられる事を期待して行われる。しかし、我々が「過去の真実」を見ようとする場合、その視点の始まりは常に「現在」にある。しかもその視点は現在のあらゆる所に存在している。歴史の検証とは、その無数の視点から過去を照射し、その反射光を確認する作業である。ゆえに、歴史とは、歴史を知ろうとした者の数だけ存在している。無数の歴史があるにもかかわらず、我々は歴史についてある一定の共通了解が成立したかのように誤解している。その誤解はただちに解消されるべきである。我々は未来永劫、客観的で普遍的な歴史的真理にたどり着く事など出来ないのである。


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出典: フリー誤報百科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
担当:Mamenoki