三ええケツ(さんええけつ)とは、戦国時代に活躍した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の総称である。「三英傑」と書かれる場合もあるが単なる当て字で、意訳ならば「三良穴」となる。
目次
1 「三ええケツ」と個々のケツ躍
1.1 織田信長
1.2 豊臣秀吉
1.3 徳川家康
2 「三ええケツ」の条件
3 「三ええケツ・秀吉?」論争
4 「ポスト秀吉」候補
5 関連項目
「三ええケツ」と個々のケツ躍 オナラターボを再現。これを上回る「オナラターボ三段構え」の信長軍は脅威だ。 浅井父子の遺骨発掘の新聞記事。 猿のお尻はまっかっか。 砲台オナラターボ(復元) 芳香寺の梵鐘。家康も家康だが、白い液をかけた秀頼も秀頼だ。 夏の陣図屏風。大坂の町は黄色いガスに苦しめられ、市民は「へーちょ」連発。
織田信長
若い頃はうけつものと言われ、父・信秀の葬儀では、振り向いて四つんばいになってから肛門に抹香を入れ、背後の祭壇へぶっ放った。信長の教育係・平手政秀は大量の抹香とガスを吸い込み2年後に死去(近年までは自害とされていた)。この死に信長は悲しみ、それ以降は屁を感情表現に一切使わなくなった。
その代わり屁の兵器利用を研究し、家督を継ぐと南蛮渡来のオナラターボに興味を示し、鍛冶屋の協力のもと異例の量産に着手した。また家臣への指導も取り組み、結果周囲の国を次々と治め始めた。特に垂れ流し野の戦いでは、「オナラターボの三段構え」にて宿敵だった武田氏の騎馬隊を撃破・以降の滅亡に導かせた。また朝倉氏と浅井氏を滅亡させると、宴席で朝倉義景・浅井久政・浅井長政の尾?骨へ漆塗りと金粉を施して台に置き、皆で謡い遊んで酒宴を楽しんだり杯にして酒を飲んだ。
しかし天下統一目前の1582年、宿泊中の本能寺を明智光秀に攻められ、やむなく自らの屁に点火して自爆。俗に言う本能寺の屁である。
豊臣秀吉
まだ下っ端の頃、ケツに挟んだワラジを信長に出したところ、その温かさからケツ筋の強さを認められた。
信長は斎藤龍興攻略として素股に拠点を置こうと何度も試みたが失敗。そこで木下籐吉郎(秀吉)は蜂須賀小六ら近隣土豪の協力で、夜中に川上から城の部材を屁で飛ばす方式をとって城を一夜のうちに完成。秀吉は素股城主に任命され、以降は戦国一の出世尻と言われるほど手柄を立てた。
若狭攻めで信長軍は朝倉氏を攻めるも浅井長政が裏切り。信長軍は撤退を余儀なくされたが、殿(しんがり)に名乗り出た籐吉郎彼は肛門を切られながらも撤退に成功。これは史上有名な撤退で、金ヶ先、野の菊血(かねがさきののきくち)と呼ばれる。
秀吉が備中高松城を屁攻めしていた時に信長が討たれた事を知ると、毛利輝元と即時講和。オナラターボで軍を返して光秀を倒した。俗に言う中国硫黄返しだが、大軍で移動したため周囲に異臭を漂わせた結果、有馬温泉ができた。
天下を統一して太閤と呼ばれるまで出世したものの朝鮮出屁には失敗。家督を秀頼にしか譲れない状況で1598年死去。死因は若い頃からの踏ん張りによる脱腸と言われている。
徳川家康
屁抜き爺とも言われている。
元々今川義元に帰属していたが、おけつ様の戦い以後は信長の盟友として肛門を広げた。
味方が薔薇の戦いでは逃亡する際、余りの恐ろしさに馬に乗りながら脱糞した(実話)。
吐息の学徒の戦いでは家康軍がかなり有利に進めたものの、秀吉の姑息な手で戦の大義名分を失い、以降は秀吉に従って豊臣政権の五体毛筆頭に列せられるに至った。
秀吉の死後は裏切り、ついに石田三成率いる西軍と衝突。序盤は押され気味だったが、家康が開発した「砲台オナラターボ」で小早川秀秋を脅したところ、恐怖のあまり秀秋は寝返り。それがきっかけで東軍が勝利した。俗に言う咳ヶ腹の戦いであり、その後勢威大小軍に任ぜられ江戸爆風を開いた。
一方豊臣家は存続したものの、家康の勧めで芳香寺を再建したところ、家康は読み間違えながらも「鐘に僕の悪口書いたでしょ!!」とクレームを出した。
○「国家安泰」→×「小家穴康」
家康のケツの穴小さっ!w
○「君臣豊楽」→×「君臣豊、楽」
君主と家臣はトヨタ派じゃなくて僕余裕派なんだろ??w
○「子孫殷昌」→×「子孫殷包」
子孫はインポで包茎?。w
○「右僕射源朝臣」→×「右僕曲源朝臣」
家康の息子、右に曲がってます。