- 1 名前:日本@名無史さん [2006/01/06(金) 12:05:39 ]
- 自分は吉田と岸が良いと思ふ
鈴木善幸と近衛文麿はカス
- 349 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2008/07/02(水) 22:10:50 ID:ZwIul7RV0]
- >>194-195 >>204 >>209 >>213
539 名前:名無しさん@5周年:04/07/19 23:57 ID:9p0fQz1K 「暗愚の宰相」と呼ばれた。 善幸&喜一コンビで教科書事件。 産経新聞が教科書誤報の事実を報じて、シナの反発が和らぐと、 慌てて官房長官・喜一が記者会見を開いて近隣諸国条項を発表して歪曲を認め、 善幸首相がシナまで謝りに行きやがった。 喜一&洋平で従軍慰安婦。 喜一が勝手に危険な極右政治家だと思い込んでいる小沢一郎の政権奪取が決まると、 慌てて、「慰安婦問題は自分の内閣で起きたから自分の内閣で処理する」と退陣前の 最終日にすべり込み的に洋平に記者会見を開かせ、河野談話を発表。 みっともない退陣直後、細川政権誕生を眺めながら記者らに「徴兵制が来る」 「あのゴロツキ(小沢)!」とアホ丸出しの発言。 実は、政府は「強制ではなかった」という最終報告書を首相官邸に上げていた。 当然、宮沢内閣でなければ、あんな談話はありえなかった。 この宏池会ラインで日本国はガタガタにされたぜ。 news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1090241414/
- 350 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2008/07/02(水) 22:11:35 ID:ZwIul7RV0]
- >>349
192 名前:名無しさん@七周年 [2007/03/01(木) 21:19:41 ID:jsut09Go0] >154 >宮澤政権があと一日早く解散してたら「河野談話」はなかったのに・・・ あと一日早ければ、一日早く「河野談話」が出されていただけ。 宮沢は、「私の内閣で起きたことだから、私の内閣で解決する」と 退陣直前に滑り込み的に談話を出させたんだよ。 退陣後、小沢が天下を握ったんだけど、宮沢のアホ野郎は、 「あのゴロツキめ!」「徴兵制が来る!」などとほざいていたから、 “日本の右傾化阻止”という妄想で、あの談話を出させたんだろう。 教科書事件のときもそうだったからな。産経が誤報だと訂正・謝罪記事を 書いたら、宮沢談話発表、鈴木首相訪中で既成事実化させ、 日本の教科書に中韓の介入を意図的に招き、憲法改正阻止という宮沢の 幼稚な政治戦略を強化したわけ。 教科書問題の発端「世紀の大誤報」の真実 www.cty-net.ne.jp/~my5913/seikinodaigohou.htm mobile.seisyun.net/cgi/read.cgi/news22/news22_newsplus_1172716839/192
- 351 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2008/07/02(水) 22:13:22 ID:ZwIul7RV0]
- >>349-350
1991年10月10日、自由民主党総裁選挙の際、派閥として支持する候補者を決定するため、 出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した (小沢面接)。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ 小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった。)を自分の事務所に招いたことは傲慢で あると批判された。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E 後継首相を決める総裁選では渡邉美智雄・三塚博・宮沢喜一の3派閥領袖を竹下派事務所に 呼びつけ、小沢による口頭試問を行い、竹下派は宮沢推薦を決定。宮沢首相を誕生させる。 小沢は羽田ら44人を率いて経世会から脱会し改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂する。 その後、内閣改造で宮沢首相は小渕派厚遇・羽田派冷遇の人事を行い、翌年の不信任造反 に繋がる。 ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%BE%8D%E6%88%A6%E4%BA%89 彼は羽田孜氏を支持したのだが小渕恵三氏を推す橋本龍太郎、梶山静六氏らと対立、 当初は中立であった竹下氏が小渕氏を推し両者の溝が決定的となった。世に言われる 「一六戦争」である。 www.wombat.zaq.ne.jp/matsumuro/18-04.htm ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%85%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 湾岸戦争を機にした国連平和協力法案(廃案)を強力に推進するなど、自衛隊の海外派兵実現に 執念を燃やしていた小沢一郎が、宮沢政権下で梶山静六らの活躍によって少数派に叩き落される と、かつて小沢に口頭試問の屈辱を味わわされ、病的護憲派でもあった宮沢首相は、待ってました とばかりに“小沢生殺し”に躍起になり、それが小沢一派の自民党離党、内閣不信任案可決、 宮沢内閣退陣、小沢一派の政権奪取につながった経緯がある。 なお、宮沢内閣では、海外での自衛隊の活動がより限定されたPKO協力法案が制定された。 武力行使を伴う国際協力と憲法の関係 www.drc-jpn.org/AR-6J/hasegawa-j02.htm
- 352 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2008/07/02(水) 22:16:39 ID:ZwIul7RV0]
- >>349-351
週刊金曜日 第705号 2008年06月06日 これからの5年間、日本が何をするかが鋭く問われている 靖国・「慰安婦」・教科書・竹島(対談 東郷和彦・小森陽一) www.kinyobi.co.jp/pages/vol705/mokuji 【小森】 私は、日本で歴史認識問題が深刻な事態になったのは政局と歴史問題が密接に 絡んでしまったからだと、韓国の方々に理解していただけるように、この間繰り返し説明して きました。 1993年の河野談話と、95年の村山談話は大きなねじれのなかで生まれています。そもそも 「慰安婦」問題の裁判が冷戦終結後の91年に提起されるのですが、そのとき日本では、 湾岸戦争に対する自衛隊の海外派兵、PKO(国連平和維持活動)法案の問題がでていました。 小沢一郎幹事長を中心とする自民党が自衛隊を海外に出そうとしているという危機感を背景に、 従軍「慰安婦」問題が持ち上がる状況があったのですね。ときの宮澤喜一政権は「慰安婦」問題 の混乱のなか訪韓するなどアジア外交に重きを置いていた。また、宮澤さんは80年代の 教科書問題のときに、内閣官房長官で、近隣諸国条項の追加に、非常に責任のある立場でした。 93年、小沢一郎さんの勢力が自民党を離党し、衆議院選挙で自民党は惨敗、下野します。 自民党から、細川政権にバトンタッチするという直前に出たのが、河野談話ですね。 村山談話が出たのは、細川政権、羽田政権のあと、村山富市・自社さ政権になった95年です。 敗戦50周年に河野談話を引き継ぐ形で、自民党に担がれた日本社会党党首の村山首相が ギリギリの努力で出したのが村山談話ですね。 (続く)
- 353 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2008/07/02(水) 22:17:23 ID:ZwIul7RV0]
- >>352 (続き)
一方、93年の総選挙で自民党が大敗する。そのとき1年生議員になったのが安倍晋三議員。 逆恨みですが、安倍さんたち若年を中心に、「宮澤政権の河野談話が自民党の大敗をよんだ。 河野談話を撤回しろ」と、自民党内部に歴史検討委員会ができました。従軍「慰安婦」問題を 歴史教科書から削除せよという「新しい歴史教科書をつくる会」の動きと連動していきます。 こうして、自民党が下野して自社さで返り咲くという政局と、従軍「慰安婦」問題という 歴史認識問題がセットになった。この問題を日本の側で克服できないと突破できないのでは ないかというのが基本的な立場です。 しかし、このことが韓国では認識されていない。この事情を話すことから相互理解がはじまる んですね。
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