大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「聞いていらっしゃい、古いところからお耳に入れてあげるから」
 兵馬がいよいよもてあまして立っていると、女は練り上げた声で、
宮の八兵衛は酒お好き
お酒三杯と嬶(かか)かえた
嬶かえた……
 その突拍子な調子を兵馬が呆(あき)れました。
心やすやす安川を
向うに越ゆるは鍛冶屋橋
宮で角助、平湯で右衛門(えもん)さ
ドン、ドン、ドドロン、ドン
 兵馬は呆れ果てているけれど、女はいい心持に、また調子を替えて、
おちゃえ、おちゃえ
おちゃのうちの梨の木で
蝉が鳴く、何と鳴く
つまこい、つまこいと三声なく
おちゃえ、おちゃえ
あねさの腰の巾着は
びろどかな
びろどでないが、熊の皮
おちゃえ、おちゃえ
「それから今度は白川おけさ……」
と軽く手前口上をのべて、
おけさよう
おけさ正直なら
そばにもねさしょ
おけさ猫の性で
そうれ爪たてた
おけさよう
おけさ踊るなら
板の間で踊れよう
板のひびきで
そうれ
三味いらぬ
 呆(あき)れて聞いているうちに、兵馬もまた、なんとなくいい心持になって行くようです。
 うたはくだらない鄙唄(ひなうた)だと思うが、女はさすがに鍛えた咽喉(のど)であり、それにきょうはいやなお客の前で、胸で泣きながら口で浮つくのとちがい、なんだか心に嬉しいものが溢(あふ)れて、全く商売気抜きで、思う存分うたってのけられるのが嬉しくてたまらないものらしい。だから声もはずむし、気は加速度に浮き立ってとめどがない。
 そこで、おぞましくも兵馬なるものが、今はなんだか自分も浮き浮きして、女の唄の中に溶かし込まれて行くようでもあり、その唄が終るのが惜しいような気もして、もっと、もっと――と所望してみたいような気になっていると、
「聞き手があなたじゃ張合いがないけれど、でも、あなただって芸者のうたを聞いて悪い気持はしないでしょう――今日はわたし、全くつとめ気を離れてうたって上げることよ、ところがところですから、箱ぬきで我慢して頂戴――今度は新しいところをお聞かせしてあげるわ、これは、御贔屓(ごひいき)になった夕作さんという土地の通人がこしらえたうたなのよ――古風なのと違って、また乙なところもあるでしょう、おとなしく聞いていらっしゃいね」
思う殿御と
ころがり月を
晴れてみる夜が
待ち遠し
 (口三味線で合の手)
梅も桜も
一度に咲いて
よそじゃ見られぬ
飛騨の春
 兵馬は、なんとなくいよいよいい心持に引込まれて行くのです。事実、芸者のうたなんぞと軽蔑していながら、今日はどうしたか、それからそれと深みに引入れられて思わずうっとりとしてしまったところを、
「まあ、あなた、わたしのうたを感心して聞いていらっしゃるわね、頼もしいわ。そりゃあなただってお若いんですもの、うたを聞いていやな気持ばっかりなさるはずはないわねえ。お若いうちは食わず嫌いから、皆さん堅そうなことをおっしゃいますけれど、人間がほぐれて行くほど、お酒の味も、咽喉の味もわかって参りますのよ。あなたというお方も、もうこっちのもの、これから、わたしがみっちり仕込んであげるわよ。ところでもう一つ、今度は、飛騨の高山の土地のうたでない、本場のお座附をわたし、あなたのためにうたってあげるわよ」
 そうして、鶯(うぐいす)の鳴く前芸のように咽喉をしめて、何か本格の芸事をはじめようと構えた時に、兵馬が、別の方向にふと聞き耳を立てました。女の方も何か少しおびえてきました。
 気のせいか、峠の向うで人の声がしきりにガヤガヤとしだしている。
 兵馬は、ひらりとその音の方を見届けに行きました。

         十一

 峠の鼻のところまで物見に出て行った宇津木兵馬は、少しく狼狽(ろうばい)の気味を以て取って返して来ました。
「困った!」
「誰か参りますの」
「人が登って来る――しかもその人が、仏頂寺弥助と、丸山勇仙らしい」
「えッ、仏頂寺!」
と言って、さすがの福松が、今まで晴々していた面(かお)の色をさっと変えました。兵馬も同じ思いと見えて、
「あの連中と逢っては為めにならない」
「隠れましょうよ――早く」
「隠れるに越したことはあるまい」
「さあ、早く、あなた、これをお持ち下さい」
 二人は秋草を分け、木の間を分けて、早くもめざしたところの樅(もみ)の大木の二本並んだ木の蔭へ来て、叢(くさむら)の茂みに身を隠してしまいました。
 ほど経て――のっしのっしとこの峠の上へ、無論高山とは反対の側、白山道の方からです――身を現わした最初の一人は、まごうかたなき仏頂寺弥助――やや後(おく)れてそれにつづく丸山勇仙。
「たしかにここで人声がしていたよ、来て見ると誰もいない」
「そうそう、たしかに女の声でうたをうたっていた、しかも甚(はなは)だいい声で唄っていたに相違ない」
「それを楽しみに来て見ると、どうだ、誰もいない」
「では、あちらの下りに向いたかな」
「いいんや――うたがぽつりと消えたのが心外じゃ、あれだけに意気込んで唄っていたのだから――向うへ下るにしても余韻(よいん)というものが残らなければならない」
「それは、ぽつりとやんで跡形(あとかた)もないのだから、こいつ、我々の来ることを知って、怖れをなして隠れたな」
「或いはそうかも知れん」
「しかし、いい声であったよ」
「声だけ聞いていると、まさに惚々(ほれぼれ)したいい声であったが……姿を見ると案外の代物(しろもの)、後弁天前不動(うしろべんてんまえふどう)という例も多いことだから、むしろ見ない方が我々の幸福であったかも知れない」
「だが、それにしても心残り千万、声のいい奴が、きっと姿が醜いときまったわけのものじゃない、ことに……」
「えらく御執心じゃな」
「別に執心という次第でもござらぬが、飛騨の山々や、加賀の白山、白水谷には、これでなかなか隠れたる美人が多いとのこと。伝え聞く、悪源太義平の寵愛(ちょうあい)を受けた八重菊、八重牡丹の姉妹は、都にも稀れなる尤物(ゆうぶつ)であったそうな。また伝え聞く南朝の勇士、畑六郎左衛門時能(ときよし)も、この地の木地師の娘に迷うて、紅涙綿々の恨みをとどめたそうな。すべて山中の女は、声清らかにして肌が餅の如く、色が雪のように白いと申すことじゃ。不幸にして我々、未(いま)だその隠れたる山里の美人に見参せぬによって……」
「は、は、は、故実まで研究しての上の御執心ではかなわぬ、いずれそのうち海路の日和(ひより)というものもござろう、気永く待つことじゃ」
「どれ、この辺で一休み」
 それは、今まで兵馬と福松とが休んでいたところとほぼ同じ地点。
「それにいたしても、なんとなく……人臭いぞ……」
「人臭い?」
 二人はお伽噺(とぎばなし)にある小鬼かなんぞのように、鼻をひこつかせて、そのあたり近所をながめているうちに、
「や! ここに――」
「そうら見ろ」
 丸山勇仙がまず杖の先にひっかけて手に取り上げたのは、色友禅の胴巻でありました。
「そうら見ろ」
 仏頂寺弥助は、勇仙からつきつけられた色縮緬の胴巻に、赭顔(しゃがん)を火のように映(は)えらせて、
「こりゃ只者でござらぬ」
 まさしくは三百両の金を今まで呑んでいたその脱殻(ぬけがら)なのだから只者ではない。右の大金をたんまりと呑んでいたばかりではない、なまめかしい人肌にしっかりとしがみついていたほとぼりがまだ冷めていない代物(しろもの)。
 仏頂寺は、高師直(こうのもろなお)が塩谷(えんや)の妻からの艶書でも受取った時のように手をわななかせて、その胴巻を鷲掴(わしづか)みにすると、両手で揉(も)みくちゃにするようなこなしをして、
「さてこそ、まだ遠くは行くまい」
「は、は、は」
と、丸山勇仙の笑い声が白々しい。
「まだ、温味(ぬくみ)があるか」
と丸山から揶揄(からか)い気味に言われて、仏頂寺弥助は友禅模様にいよいよ面を赤くはえらせ、
「まだ遠くは行くまい」
「炭部屋の中をたずねてみさっしゃい」
「ばかにするな」
 丸山勇仙も冷かし気味であり、揶揄い口調であるけれども、その、は、は、は、と冷笑するところに、なんとなくすさまじい響がする。仏頂寺弥助に至っては、右の縮緬の胴巻を面(かお)へこすりつけるようにして、面と手をわななかせたり、また、急に思い出したように、忙しく前後左右、原、藪(やぶ)、木立を見透(みすか)したり、どうしても落着かないものになっている。
 そのくせ、二人のいる四辺(あたり)は、真昼であるにかかわらず、急に白けきってしまって、二人の者が、こだまにでもおどる亡者のように見える。この二人が、亡者のようにフラフラと行方定めず歩いているのは今に始まったことではない――五体もあり、むろん足もあり、人間たることは紛れもないが、二人がのこのこと歩くところは、どうあっても白昼の亡者としか見えない。
「おい、隠れるなよ、隠れたってわかるぞ、我々共とても、鬼でもなければ虎狼でもない、みだりに取って食おうとは言やせぬぞ、これへ出て、もう一度、今のいい咽喉(のど)を聞かしてくれんかいな」
 仏頂寺弥助が、四方を見廻しながら、咽喉が乾いて舌なめずりでもするかの如く言いかけたのが、四方の静かな峠路の林まで、沁(し)み入るように響き渡りました。

         十二

 木蔭から、息を殺して、こちらをうかがっていた福松は、
「あら、大変! 仏頂寺の奴に胴巻を拾われちゃいました」
「抜かったな」
 兵馬も答えると、
「あらあら、仏頂寺がこっちへやって来るわよ」
「あわてるな、あわてるな」
と言って、兵馬も同じく木の葉の間から、眼をはなすことではなかったが、色縮緬の胴巻を拾い取った仏頂寺弥助が、叢(くさむら)を分けて、ずっしずっしとこちらに向って歩み来(きた)りいることは事実なのであります。
 まさか、これだけの距離があって、そうして物蔭にいて、彼等に見咎(みとが)められようはずはないのだが、現にこちらを目指して仏頂寺がズンズンと叢を分けてやって来るから、兵馬も動揺しないわけにはゆかないでいると、
「どうしましょう、どうしましょう……あら、仏頂寺の奴、こっちをあんな眼つきをして睨めていますよ、たしかに見つかっちまったのよ」
と言って、福松は兵馬にしがみつきました。
「まさか!」
 しかし、いよいよ感づかれて、見つけられたとなったらその時のことだ! 兵馬も腹を決めていると、
「今度は見捨てちゃいやよ、宇津木さん! わたし仏頂寺に引渡されるのは、もう御免よ」
と言って、福松はぐんぐんと押しつけて来るものだから、兵馬は、たじたじと後ろの樅(もみ)の木に押しつけられてしまいました。
 この女として、恐怖は恐怖に相違あるまいけれど、これは必要以上に押しつけて来るとしか思われない。兵馬はその必要以上に押しつけて来る女の体をもてあまし気味で、
「あの連中、まだこんなところをうろうろしている、仏頂寺の故郷というのが越中の富山在にあって、あちらの方へ行くと言っていたが、今時分、何の必要あってこの辺をまだうろうろしているのか、解(げ)せないことだ」
「ひとさらいみたようね」
「あれで、惜しい男なのだ、練兵館でも、あのくらい腕の出来る奴はないのだが、心術がよくないため、長州の勇士組から見放され、師匠篤信斎(とくしんさい)からも勘当を受け、そうして今はああして、亡者の体(てい)となって諸国をうろついて歩いている」
「悪党のようで、それで思いの外さっぱりしたところもありますのね」
「うむ――本来あれで一流の使い手なのだから」
「新お代官みたように、しつっこいいやなところはないけれども、でも気味の悪いこと、手足の冷たいこと、全くこの世の人のようじゃありません」
「自分でも亡者亡者と呼んでいる」
 こう言って、二人は物蔭で私語(ささや)き交していたが、
「あら、また、やって来ますよ」
 一時(いっとき)、立ち止って、こちらを透(すか)して見ていたような仏頂寺が、またのっしのっしと草原を分けて来るので、福松はまた兵馬に一層深くしがみつきました。
 なるほど、執念深い彼等のことではあり、異様な六感が働いて、ほんとうに我々のここにいるのを気取(けど)ったかな。もしそうだとすれば……兵馬はここでかえって機先を制して、こちらから身を現わして出て行ってみようかと思ったが、それは女にからみつかれていて、にわかに転身が利(き)かない。
 そうしていると、突然、あちらの方で、
「仏頂寺、仏頂寺!」
 高らかに呼ぶのは、丸山勇仙の声であります。
「何だい」
 それに答える仏頂寺の声が、今日はいつもより一段と太くてすさまじい。
「松茸(まつたけ)の土瓶蒸(どびんむし)をこしらえて食わすから来い」
「ナニ、松茸の土瓶蒸!」
と言った返事が、やっぱりすさまじく四辺にこだまして聞える。
 仏頂寺が振返って見ると、丸山勇仙が、以前の地点で盛んに火を焚きつけている。
「ふーん、松茸の土瓶蒸と聞いちゃ、こてえられねえ」
 仏頂寺は仏頂面(ぶっちょうづら)をしながら、でも、松茸の土瓶蒸がまんざら[#「まんざら」は底本では「まざら」]でもないと見えて、しぶしぶ引返して行くのです。

         十三

 仏頂寺が以前の地点へ立戻って見ると、丸山勇仙は、もうかいがいしく料理方を立働いている。
 なるほど、土瓶蒸の献立がすっかり出来上っている。原料の松茸は、途中こころがけて山路で採集して来たものであろうし、それを土瓶に仕かけて水を切って、火を焚きさえすれば口へ運べるようにととのえて持って来ているらしい。
 おまけに彼は一瓢(いっぴょう)をも取り出して、そこへ並べてあるのは、松茸の土瓶蒸だけでなくて、紅葉(もみじ)を焚いてあたためるの風流にも抜かりがないとは、なんと優しいことではないか。
 仏頂寺はそれを見ると、相当に仏頂面をほぐして、草を褥(しとね)にどっかと腰を卸したところへ、如才なく丸山勇仙が猪口(ちょこ)をつきつけました。
「松茸の土瓶蒸で一杯やるかな――」
 仏頂寺が仏頂面に涎(よだれ)を流してそれを受ける。
 かくして二人が、土瓶蒸を肴(さかな)に、とりあえず一杯ずつの毒味を試みている。
 旅に慣れた彼等は、即席の調理方に要領を得ている。小鳥峠の上を会席の場として選定したこともまた、ところに応ずの要領を得ている。
 かくて彼等は、飲み、松茸蒸を味わいつつ、ようやく興が深くなって行くはずなのに、今日はどうしたものか、仏頂寺が至極(しごく)浮かない。いつもそう浮き立ってばかりいる男ではないが、今日は特に一杯盃(さかずき)をふくむごとに、一杯ずつ滅入(めい)って行くような気色(けしき)がいぶかしいのです。
「丸山――」
「何だい」
「きょうの酒は、また一段と旨(うま)いし、松茸蒸も頬っぺたが落ちそうに旨いけれども、どうも、おれのこの胸が、この心が、ちっとも浮いて来ないわい」
「ふーむ、悪いものを見せたからなあ。色縮緬の女物なんていうのは、仏頂寺には虫の毒なんだ」
「いや、それじゃないなあ」
「は、は、は、何か別にお気もじさまな一件があるのかい」
「どうも面白くないな、こうして酒を一杯飲むごとに、胸が重くなる」
「冗談じゃない、酒は憂鬱(うれい)を掃(はら)う玉箒(たまははき)というんだぜ、酒を飲んで胸を重くするくらいなら、重湯を食べて寝ていた方がいい」
「だが、丸山――酒は旨いんだよ、肴は申し分ないんだが、この胸だけが、だんだんと苦しくなる」
「病気でも起ったのかい――鬼の霍乱(かくらん)てやつで……」
「そうじゃない――病気なんていうやつは、本来、仏頂寺の門前を避けて通ることになっているのだが、今日はなんとなく気がふさぐよ」
「困ったもんだな、天気はこの通りよしさ、ところは名代の小鳥峠の上で、紅葉を焚いてあたためた酒を飲みながら、手取りの松茸(まつたけ)のぴんぴんしたやつを手料理、これで気をふさがれちゃあ、土瓶も松茸も泣くだろう、第一、板前の拙者がいい気持はしないや、浮きなよ、浮きなよ」
「浮かない、どうもこの胸が、一杯飲むごとに沈んで行く、といって、酒はやっぱり旨(うま)いのだ、肴(さかな)に申し分もないし、天気はいいし――」
 仏頂寺は、盃を噛みながら四方(あたり)を見廻す。至極晴れやかな小鳥峠だけれども、仏頂寺に見廻されると、急に白ちゃけてくるようになる。丸山はその気を引立てようとでもするかの如く、
「不足を言えば、たぼが一枚欠けているだけのもんだ、この席へ、いま聞いたような咽喉(のど)が一本入れば、それこそ天上極楽申し分ないのだが――望月(もちづき)のかけたることのなしというのはかえって不祥だよ、この辺で浮きなよ、浮きなよ」
「浮かない――一杯飲めば飲むだけ気がふさぐ」
「弱ったな、こうして働いて御馳走をしてやって、その御馳走を食わないならいいが、さんざん食い且つ飲まれながら――一口上げに気がふさぐと言われたんじゃ、全く板前がやりきれない」
と言って、丸山勇仙がつまらない面(かお)をして、仏頂寺の面を見なおす。
「丸山、つまらねえな」
「何が……」
「つまらねえよ」
「何が、どうして」
「酒を飲んでも浮ばれなくなったんじゃ、もう見きり時だ」
「いやに湿(しめ)っぽいことを言い出したもんだな、しかし……」
と、丸山も少しく思案してみての上で、
「そうだっけな、李白の詩に、酒を飲んで愁(うれい)を銷(け)さんとすれば愁更に愁う、というのがあったっけ、あれなんだな」
「どれだ」
「まあいいや、酒というやつが、必ずしも人を浮かすときまったもんじゃないんだから、何でもいいから飲みな仏頂寺、遠慮なく飲みな、そのつもりで、この松茸と相応するほどもろみが仕こんで来てあるのだから」
「飲むのは辞退しないよ、ただ、一杯飲むごとに気が滅入る」
「まだあんなことを言ってやがる、勝手にしな。ところで、こっちも人に飲まれたり、愚痴を聞かされたりばっかりしていてはうまくないから――これより、思うさまお相伴(しょうばん)と致して」
 丸山勇仙も、この辺から板前を辞して、自分も会席へ進出しました。

         十四

 ところが、自分が飲み出してみて、丸山勇仙が、
「仏頂寺――」
「うむ」
「旨(うま)いなあ――この酒は」
「旨いな」
「松茸も旨いだろう」
「旨いよ」
「浮きな」
「浮かない」
「では、僕が大いに浮いて見せよう」
 丸山勇仙は、浮かない仏頂寺を浮き立てるつもりで、自分がぐいぐいと手酌(てじゃく)で盃を重ねながら、ようやく浮き立とうとつとめたが、気のせいか誂向(あつらえむ)きに浮いて来ないらしい。
 そこへ仏頂寺が、また横の方から、すさまじい声で呼びかけました、
「丸山――」
「何だい」
「そもそも我々は、これからどこへ向って行こうというのだな」
「君の郷里、越中国氷見郡(ひみごおり)へ出ようということになっている」
「駄目だ、駄目だ、仏頂寺がこの仏頂面を下げて、今更のめのめと故郷へなんぞ帰られると思うか」
「今それを言い出されちゃ遅い、では、この辺で立戻りの弁慶とやらかすか」
「いったい、どこへ立戻るんだ」
「さあ、そいつはお前の方から聞きてえんだ、やむを得ずんば江戸へ引返すかな」
「江戸――江戸へ出て、あのやかましい老爺(おやじ)の篤信斎の髯(ひげ)を見るのは癪(しゃく)だ」
「では、どうだ、長州へのしては――」
「長州は今、尊王攘夷(そんのうじょうい)で、国を寝かすか起すかと沸いている、あんなところへ、我々は飛び込めない」
「だから、大いに勇士の来ることを期待している、君でも行けば、この際、大いに歓迎するだろう」
「なかなか」
「奇兵隊を率ゆる高杉晋作なども、まんざら知らぬ面でもあるまいから、訪ねて行ったら面倒を見てくれるだろう」
「だが、仏頂寺も面がすたったからな、ぬけぬけと出て行って、仏頂寺来たか、貴様、剣術が出来ても、心術がなっていないなんぞと、高杉あたりにあの調子でさげすまれるのが癪だ」
「では、どこへ行く」
「さあ、それだ」
「いったい、我々はこれからどこへ落着くのだ、ギリギリの返答が聞きたい」
「どっちが聞きたいんだ」
 仏頂寺と丸山は、ここで面を見合わせたが、笑いもしませんでした。
「丸山――」
「何だ」
「おたがいは亡者だな」
「まあ、そんなものだろう」
「宙宇(ちゅうう)に迷ってるんだ」
「まあ、そんなものだ」
「天へも上れず」
「地へも潜(くぐ)れず、かな」
「東の方(かた)、江戸表も鬼門」
「西の方、長州路は暗剣」
「のめのめと故郷へは帰れず」
「そうかと言って、また来た道を引返すのはうんざりする」
「所詮(しょせん)……」
「考えてみると……」
「我々は、どこへ行こうと言って思案するよりは……」
「何の目的で、こうして旅をして歩かねばならないのか」
「それよりはいっそ――何故に我々は生きていなけりゃならねえのか、そいつが先だ」
「むずかしいことになってしまったぞ!」
「考えてみろ、おれも、貴様も、何のために生きているのだ」
「そいつは困る」
「困るたって、それを解決しなければ、永久にこうして亡者として、八方塞がりの籠の中を、うろうろ彷徨(うろつ)いて、無意味に行きつ戻りつしていなけりゃならん」
「なにぶんやむを得んじゃないか」
「ところが、今やそのやむを得ざることが、得られなくなってしまった――おれはもう、こうして旅から旅の亡者歩きに大抵倦(あ)きてしまったよ」
「だって、やむを得んじゃないか、君ほどの腕を持っていながら、この手腕家を要する非常時代に、いっこう用うるところがない、拙者ときた日には、君ほどの腕のないことは勿論(もちろん)だが、儒者となるには学問が足りない、医者となるべく術が不足している、英学をかじったが物にならず、仕官をするにはものぐさい、日雇に雇われるには見識があり過ぎる――亡者としてうろつくよりほかには道がないじゃないか」
「その亡者として生きる道がもう、つくづくおれはいやになったのだ」
「では、どうすればいいんだ」
「考えてみろ」
「考えろったって、この上に考えようはありゃせん」
「斎藤篤信斎は、剣術を使わんがために生きている」
「うむ」
「高杉晋作は、尊王攘夷のために生きている」
「うむ」
「徳川慶喜は、傾きかけた徳川幕府の屋台骨のために生きなけりゃならん」
「うむ」
「西郷吉之助は、薩摩に天下を取らせんがために生きている」
「うむ」
「小栗上野(おぐりこうずけ)は、幕府の主戦組のために生きている」
「うむ」
「勝麟(かつりん)は、勤王と倒幕の才取(さいとり)のために生きている」
「うむ」
「岩倉具視(ともみ)は、薩長を利用して、薩長に利用せられざらんがために生きている」
「うむ」
「土佐の山内や、肥前の鍋島は、薩長だけに旨(うま)い汁を吸わせてはならないために生きている」
「うむ」
「会津、桑名は、徳川宗家擁護のために生きなけりゃならん」
「うむ」
「さて、それから宇津木兵馬は――」
「は、は、は、少し、人物のレヴェルが変ってきたな」
「宇津木兵馬は、兄の仇を討たんがために生きている」
「うむ」
「お銀様という女は、父に反抗せんがために生きている」
「うむ」
「机竜之助は、無明(むみょう)の中に生きているのだ――ところで、仏頂寺弥助と、丸山勇仙は、何のために生きているのだ」
 こう言って、仏頂寺弥助のカラカラと笑った声が、またもすさまじく、森閑たる小鳥峠の上にこだましました。
「松茸の土瓶蒸を食わんがために生きている、あッ、は、は、は」
と合わせた丸山勇仙の声も、決して朗かな声ではありませんでした。

         十五

 その後、かなり長いあいだ沈黙が続いたが――仏頂寺はそれでも酒をやめるのではなく、苦り切って一杯一杯と重ねている。
 大いに浮れを発するつもりの丸山勇仙までが、いつのまにか引入れられて湿っぽくなる。強(し)いて気を引立てようとするが、どうしても引立たないらしい。
「仏頂寺――」
「何だ」
「いやにしめっぽくなったな」
「そのくせ、天地はこの通り上天気だ」
「ところは長閑(のどか)な小鳥峠の上で――」
「丸山、おりゃどうでも死にたくなってしまった」
「は、は、は」
 この時、丸山勇仙が強(し)いて笑い崩そうとしたが、いっそう重苦しい。
「死にたくなった」
「は、は、は、は」
 死ぬのがいいとも言えず、悪いとも言えない、丸山勇仙は、ただ強いて重苦しく笑うだけであった。笑いも、こうなるとうめきよりも渋濁である。
「死にてえ、死にてえ」
と、仏頂寺弥助が捲舌(まきじた)をつかい出す。
「くたばりゃがれ!」
と、丸山勇仙が悪態(あくたい)をつき出す。
「そうれ」
と仏頂寺が、最後の一杯、いな、一滴と見えるのを、深く腸(はらわた)の底まで送り込んで、その盃を勇仙めがけて投げつける。勇仙がそれを受けて、手酌で一杯ひっかけようとしたが、もう酒が尽きた。
「丸山――おれは死ぬぞ、どう考えても生きる口実を見失ったから、これから本当に死んで見せるのだ、検視をつとめさっしゃい」
と言って仏頂寺弥助は、着ていた羽織を脱ぎにかかりました。
「本当に死ぬのか」
「うむ――見ていさっしゃい」
「冗談じゃなかろうな」
「冗談から駒の出ることもある、いのじヶ原の時だってそうだ」
「今は、どうするつもりだ」
「どうもこうもありゃせん、お前は、ただ黙って最期(さいご)を見届けていさえすりゃいいんだ」
「仏頂寺、いやに真剣だな」
「真剣だとも」
 羽織を脱ぎ終った仏頂寺弥助は、それを草原の上に敷いて、その上に、草鞋(わらじ)をぬいでどっかと座を占めたものです。
「仏頂寺、変な真似(まね)をするなよ」
 丸山がようやくあわてだしたが、仏頂寺弥助はそれに取合わないで、その次の仕事が内ぶところへ両手を入れ、おもむろに諸肌(もろはだ)を脱いでしまったところです。
「風邪をひくよ、風邪を、変な真似をするなということよ」
「いいから、黙って最後まで見届けるんだ」
「な、なにをする!」
 丸山勇仙が、非常に狼狽して仏頂寺の膝にとりついたのは、彼が第三次の事業として、畳紙(たとう)をひろげて二つに折り、それから刀を取って膝の上に置き、やおら鞘(さや)を外(はず)してしまって、その程よきところを畳紙に持添えて構えたのが、どうしても切腹に取りかかるもののふの作法とよりほかは受取ることができないので、丸山勇仙が眼の色をかえて仏頂寺の膝にとりついた時に、仏頂寺は、
「何だ、丸山、貴様とめるつもりか、拙者が覚悟をきめて、尋常に死にくたばろうとするのを見て、いまさら貴様が留立てをしようとするのは奇怪だ、留めるなら留めるだけの意義と理由を以て留めろ」
 仏頂寺弥助が傲然(ごうぜん)と叱咤(しった)するのを、丸山勇仙はテレきって、
「意義も理由もありゃしない、予告なしに眼前で腹を切ろうという奴を、友人の身として見ていられるか、いられないか。僕に向って留めだてをする意義と理由とを求める前に、仏頂寺――君はなぜ、今になってそう急に腹を切らなければならないのか、かえってその意義と理由を示せ」
「その意義と理由がわかるくらいなら、腹を切りゃせぬ、それがわからないから腹を切るのだ、貴様、留めるのなら留めるでいいが、これからさき仏頂寺弥助が、何故に生きていなけりゃならんか、その講釈をして聞かせろ」
「むずかしいことを言うなよ、いま死ぬくらいなら、もっと早く相当死場所もあったろうじゃないか、ここまで来たんだから、もう少し延ばして、相当準備をととのえてからにしちゃあどうだ、相当の準備期間を……」
「生きて行くには相当の準備もいるだろうが、死ぬに準備は要らない、出たところ勝負で結構」
「だって、そりゃ、あんまりあっけないこった、せめて――明日まで延ばしてくれよ、明日まで……明日になると、また何か風向きが変らぬとも限らん。仏頂寺、貴様は今、不意に死神(しにがみ)にとりつかれたんだ」
「は、は、は、死神にとりつかれたんじゃない、死神を出し抜いてやるのだ、死神という奴は、いつも人を出し抜いて狼狽(ろうばい)さすから、今日はひとつ、仏頂寺が先手を打って死神を狼狽させてやるのだ――は、は、は、丸山、そういうお前の面に死神がのりうつっているよ」
「冗談いうない、冗談いうない、おりゃまだ死ぬのはいやだよ」
「だから、生きて、介錯(かいしゃく)を頼むとは言わない、仏頂寺の最期を、おとなしく、ちゃんと見届けていてもらいたいのだ。さあ、もう覚悟はきまった、放せ、放せ、離れていろやい、丸山勇仙――」
「だって仏頂寺、二人ともに影の形に添うが如く、これまで来て、それを両人覚悟納得の上なら知らぬこと、今日突然、貴様だけが死ぬというのに、この丸山が指をくわえて見ていられるか」
「見ていられなけりゃ、どうするのだ」
「どうするったって、まあともかくも一応、思い留まってくれ給えよ」
「思い留まれねえ、こうなって思い留まれる仏頂寺だと思うか。思い留まらないときまった上は、貴様はどうする……」
「どうするも、こうするもありゃしない。腹を切ります、はいお切りなさい、友人としてそれが言えるか、言えないか……」
「言えなけりゃ、どうしようというのだ、一匹一人の男が死のうと覚悟したものを、貴様の痩腕(やせうで)でどうしようというのだ」
「理窟を言うなよ、理窟を――」
「理窟ではない、貴様がどうしても無用の留立てをして、ここで拙者の往生際(おうじょうぎわ)を邪魔立てしようというなら、してみろ、足手まといの貴様から先に叩き斬り、仏頂寺は心置なく腹を切って死ぬまでだ」
「いやに恐(こわ)い目をするじゃないか。仏頂寺、君がそれほどまでに死にたくなったんじゃ是非もない、いかにもおれの痩腕じゃ、仏頂寺の死際を取抑えるわけにいかんのはきまっている」
「だから、おとなしく、それに坐って、拙者の腹の切り方と、往生際を、またたきもせずに見届けていることじゃ」
「じゃといって――友達が死ぬのを、いい気でおとなしく、眺めちゃあいられまいじゃないか」
「なあに――生(なま)やさしいのが、じたばたするんじゃない、仏頂寺ほどの亡者が、得心ずくで腹を切るのだ、見ているうちには胸が透いてくるよ」
「ばかな――なんらの意義も理由もなく、友達が腹を切る、よろしいお切りなさい、拙者が傍から切りっぷりを拝見なんてすましていられるか」
「すましていられなけりゃ、濁ってなりと、かぶってなりと見ておれ、そんなことにかかわっちゃおられん。どーれ」
 仏頂寺弥助は、ついに長い刀の物打(ものうち)の上あたりを半紙で掴(つか)んで、左の手で襟を押しひろげて、その腹を撫ではじめました。
「仏頂寺――」
「何だ、泣き声を出すな、不祥な声を出すと、仏頂寺が冥途のさわりになる」
「まあ、仏頂寺――」
「何だい、今となって、仏頂寺、仏頂寺と言うない」
「まあ、仏頂寺、もう少し待ってくれ、留めるんじゃない、おれにも少し了見があるから、もう少し待ってくれ」
「何だ、貴様の了見というのは……」
「仏頂寺、実はな、おれも一時は面喰って、お前の最期を留立てをしてみたんだが、よく考えてみると、こっちも御同然の身の上だったんだ、お前が生存の意義と理由とを見出し得ない如く、この丸山勇仙も、そんなものが見つけられないでうろついているのだ。だから、お前がその理由によって死ななければならないとすれば、この丸山勇仙も、残って生きていなけりゃならん必要と意義とが無いのだ、それを今やっと考えついたのだ」
「そうだ、貴様だって、これから生きのびて尊王攘夷をやるという柄でもなし、新撰組に加わるという柄でもないのにきまっている」
「そこでだ――お前が死ぬとなれば、おれも死ぬ――と、なぜ最初から言えなかったのか、それが考えてみると不思議だ」
「うーむ」
「だから仏頂寺――留立するなあ、愚劣千万だったよ、お前が死ぬんなら俺も死ぬよ、もう、明日だの、一時待てだのなんて言やしないよ、今日、この場で、お前と枕を並べて死ぬのが、当然過ぎるほど当然たる容易(たやす)い仕事であったのだ、当然そう行かなけりゃならないはずのを、なぜ、みっともない狼狽(うろた)えぶりをして見せたのか、今となって不思議だ、多分お前の言う通り、先手を打たれた死神の奴が狼狽して、お前にはとりつけないから、おれの手を借りて、お前の勝利を攪乱(こうらん)しようと企てたのだろう、もう、わかったよ、死ぬよ、お前と一緒に、おれもこの峠の上で、今日只今、死んで見せるよ」
「は、は、は、は」
「お前だって人の留立てを差しとめておきながら、おれの死ぬのをよせとは言えまい、おれだって影の形に添うが如く、これまで亡者うろつきにうろついて来て、お前を死なして、これからひとり旅ができるものか、できないものか、つもりにもわかりそうなものだ。そのつもりにもわかるべきことが今までわからなかった、死神めに攪乱されていたのだ」
「そう事がわかったら、おたがいに、生の自由と死の自由を尊重することだ」
「善は急げだ――話がきまったらぐずぐずしないがいい。ところで、仏頂寺、お前は剣を以て世に立って、剣で果てるのだから切腹が当然だが、僕の方はそうはいかない、剣道が本職ではなし、万一切り損なって、お前に最期の道を先立たれ、あとからのたうち廻って追いかけるなんぞは醜態千万だから、こういう時の用心に、僕は僕だけの死に方がちゃんとあらかじめ附いているのだ」
「そうか」
「僕は、かねてより今日あることを慮(おもんぱか)って、ここにこれ、舶来の硫酸という劇薬が一瓶仕込んである、これを、ちょっとあおると五臓六腑が焼け爛(ただ)れて、完全に生命が解消される、腸(はらわた)を沁(し)み込んで行く間はかなり苦しいそうだが、切腹とどちらか、その苦痛の程度の比較は知らないが、やり損いなしに死ぬることは請合いなのだ、そこで、君が腹へ刀を突き立てると同時に、こいつを僕が一滴ずつ口中へ垂らし込む」
と言って、荷物の中からグロテスクな小瓶を出して見せる。
「うーむ、面白いな、貴様もなかなか馬鹿でない」
「話がきまったら、心静かに――しかし、善は急げだ」
 こう言って、丸山勇仙は毒薬を下に置き、仏頂寺と同じように、羽織を脱いで草原の上に敷きました。

         十六

 やがて、仏頂寺が刀を腹へ突き立てると同時に、丸山勇仙が小瓶を口にグッと仰ぎました。
「仏頂寺、痛いだろう」
「うむ――」
と言いながら仏頂寺は、その刀を引き廻し、
「丸山、薬は、薬は利(き)いたか」
「まだ何ともない、痛みの至る程度から言えば、お前のとは比較になるまい、あ、それにしても胸が変だ、腹が痛い」
「しっかりしろ」
「仏頂寺、痛いだろう」
「そりゃ、痛い、腹も身のうちと言うからな」
「我慢しておれも……」
 この時分に、丸山の腹に硫酸が浸漸(しんぜん)をはじめたらしく、
「苦しい、思ったより苦しい!」
と叫びましたが、
「がんばれ!」
と仏頂寺が声をかけると、丸山は、
「ああ、この苦しみは別だ、まるで五臓六腑が焼け出したようだ、噴火山から熔岩が流れ出して村里をのたうち廻るように、腹の中を熱いものが引掻(ひっか)き廻す、仏頂寺、おまえのも楽じゃあるまいが……」
「楽じゃない――」
「俺のは苦しい、同じことなら、腹を切るんだった、こんなに……毛唐(けとう)の薬がこんなに利くとは思わなかった、苦しい!」
「愚痴を言うな」
「たまらない――誰か早く引導を渡してくれ」
「我慢しろ」
「うむ――」
 丸山勇仙は、しっかりと大地につかまって堪(こら)えている。仏頂寺は全力をこめてキリキリと刀を腹の中へできるだけ強く突きこんで引掻き廻してえぐりながら、苦しがっている。でも、丸山勇仙に同情するの余裕がいくらか残っていると見えて、
「丸山、苦しまぎれに、さっきのあの受け渡しをもう一ぺん繰返せ、それが引導だ」
「ううむ、ううむ」
「いいか、斎藤篤信斎は……剣術をつかうために生きている」
「うーむ、高杉晋作は……尊王攘夷の……ために生きている」
「徳川慶喜は……」
「うーむ」
「小栗上野は……」
「うーむ」
「勝麟は……」
「うーむ」
「岩倉は……」
「うーむ」
「土佐と、肥前は……」
「うーむ」
「会津、桑名は……」
「うーむ」
「そうして、仏頂寺弥助と……丸山勇仙は……何のために生きているのだ」
「うーむ」
「うーむ、何のために……」
「うーむ、生きている……」
「うーむ、松茸の土瓶蒸を……」
「うーむ、食うために……」
「うーむ、うーむ」
 ここで、ついに二人の舌が硬(こわ)ばって、呂律(ろれつ)が廻らなくなり、丸山勇仙はもう受け渡しどころではなく、そこらをのたうち廻って苦しみ出したが、仏頂寺の気はなお確かで、存分に腹をえぐって上へハネ、やがて刀を返して咽喉(のど)へ持って行って、一気に咽喉笛を掻切ってしまったから、万事はおしまいです。
 ほとんど同時に、丸山勇仙も動かなくなりました。

         十七

 それを遠く、物蔭にうかがっていた女が言いました、
「ごらんなさい、いい気じゃありませんか、男同士ふたり水入らずで、峠の上で飲めよ唄えと、さんざん騒いだ揚句、とうとういい心持で寝込んでしまいましたよ」
 兵馬もまた、そうだと信じている。このかなり隔たった距離の点からうかがっていると、二人の挙動は、万事いい気持ずくめとしか見えなかったものです。
 紅葉を焚いて、酒と松茸をあたためて食べながら、出まかせの太平楽を並べて、それが相当に並べつくされた後、ところを嫌わず、いい心持で寝そべってしまったのだと見るよりほかには見ようがなかったのです。何故に生きねばならないかの疑問と、これより先へは一寸も歩けない倦怠が二人を悩まして、その間に受け渡された、憂鬱きわまる問答の声は、決してここまで届かなかったものですから、兵馬も、
「暢気(のんき)千万な奴等だ――ああなると、全く箸(はし)にも棒にもかからぬ」
「でも、可愛らしいところがあるじゃないの、人間はアクどいけれども、ああして行きあたりばったりに酔っては寝、寝ては起き、起きては旅――という気持だけは羨(うらや)ましいわ」
「あれだけの気分で、彼等は生きているのだ」
「わたしたちだって、あの気分で生きて行きさえすれば文句はございませんね、旅から旅を気任せに、酔っぱらって寝転んだところが宿で、起きてまた歩きだすところが旅――ああして一生が送れれば、あれもまたいいじゃありませんか」
「御当人たちはよろしいとしても、差当り、こっちの動きがとれないには困る」
「困りゃしないわよ、向うが向うなら、こっちもこっちよ、根(こん)くらべをしようじゃありませんか」
「ばかなことを――」
「あの人たちが頑張(がんば)り通すまで、こっちもここを動かないことにしてはどう、ねえ、宇津木さん」
「そういう緩慢なことはしておられない――とにかく、彼等が眠りに落ちたを幸い、この間に摺(す)り抜けることにでもせんと……」
「まあ、あなたは、どうしてそんなにせっかちなのでしょう、少しはあの人たちにあやかりなさいよ」
と言って、兵馬の胸にしがみついて怖れをなしていた女が、兵馬の首根っこにぶらさがって、木の実をとりたがる里の子供らが、木の枝をたわわにしてぶらさがりたがるようにしてぶらさがるものだから、
「いけない」
と兵馬は拒みました。
「いや、放して上げないことよ」
 これを摺り抜けて兵馬は、
「とにかく見届けて来る」
 仏頂寺、丸山の事の体(てい)を見届けに行きました。見届けるといっても、根気負けをして、名乗りかけて切抜け策を講じようという気になったのではなく、彼等の寝息の程度を窺(うかが)って、その間にここを摺り抜けてしまおうとの斥候(ものみ)の目的で兵馬は出かけたものらしい。仏頂寺、丸山といえども、兵馬にとっては親の敵(かたき)ではなし、万一見つかったら見つかった時のはらもきめて、恐る恐る草原をわけて近づいて見ると、案の如く、二人は飲み倒れて横になっている。なるほどあくどい奴等ではあるが、こうしてところ嫌わず飲んでは寝、寝てはまた起きて旅から旅をうろつく彼等の生活もはかないものだが、そこに無邪気な点も無いではないと、妙な気分に襲われながら、兵馬は少しおかしいような気持になって、少なくとも、二人のその放漫無邪気な寝顔だけでものぞきに来たつもりで、もう一歩近づいた時に、ぷんと血の香(か)を嗅ぎました。
 無邪気に酔倒しているのではないことを直感しました。
 脱兎(だっと)の如く、兵馬は秋草を飛び越えたのです。そうして、仏頂寺の倒れたのを抱き起して見たのです。
「仏頂寺――仏頂寺」
 兵馬は、声高く叫び且つ呼んでみましたが、返事がありません。
 あわただしく、それをそのままそうして置いて、丸山勇仙を抱き上げ、
「丸山君――丸山――丸山勇仙君」
と、立て続けに名を呼びましたけれども、これも返事がありません。
 仏頂寺は立派に腹を切り了(お)えた上に、咽喉を掻(か)ききっている。これは反魂香(はんごんこう)の力でも呼び生かす術(すべ)はない。
 丸山勇仙の死体は拾い起して見ると――これは五体満足ではあるけれども、すでに硬直し、冷却していることは仏頂寺以上で、ただ、何をもって死んだか、殺されたかの形跡が明らかでない。
「仏頂寺君、丸山君、君たち、なぜ死ぬなら死ぬように言ってくれない――」
と、兵馬は二人の死骸を打ちながめて叫びました。
「こういうことと知ったら隠れているんじゃなかった、出て来ればよかった――君たちは死ぬためにここに落着いていたとは、気がつかなかったよ――死ぬんならばこちらにもしようがあったのだ、目の前で二人を死なせながら見殺しにした」
 兵馬は泣いて叫びました。

         十八

 その夜、上平館(かみひらやかた)の松の丸のあの座敷の、大きな炉辺(ろべり)に向い合って坐っているのは、お雪ちゃんと宇治山田の米友でありました。
 お雪ちゃんは、一生懸命でお芋(いも)の皮をむいているのであります。
 その手先を、眼を据えたように、そのくせ、多少の気抜けもしているもののように、米友がしょんぼりとながめながら、膝をちょこなんと組んで、向う脛(ずね)のところを抱え込むようにして坐り込んだまま、無言なのです。
「ごらんなさい、米友さん、あなたに買って来ていただいた庖丁が、こんなによく切れて――」
 なるほど――お雪ちゃんの言う通り、お雪ちゃんは今、芋の皮をむくにしても、新しい卸し立ての庖丁を使っているところであります。
「そうかなあ」
と、米友が気のない返事をしました。気のない返事をしても、気の抜けたという意味ではなく、心そこにあらずして返答だけをしたものですから、なんとなく気のないように聞えるだけのものです。
「ごらんなさい、今晩は、座敷うちだってこんなに明るいじゃありませんか、何から何まで新しいものずくめで、まるでお嫁さんにでも……」
と言って、庖丁の手を休めてお雪ちゃんが今更のように、この室内を見廻したものです。
「うむ――」
と言って、米友は相変らず気のない返事をして、お雪ちゃんへの義理に、うつらうつらとこの室内を見廻したものです。
 なるほど、そう言われてみると、新しい。家は特別に新しくはないが、室内の調度というものが、ほとんどすべて新しく一変している。それは誰が一変さしたものか、問うまでもなく、御本人の米友公のもたらした一つの恩恵なのであります――というのは、米友が長浜から帰ることなしには、この室内もこんなに新し味が増すわけはなく、また同時に、米友がたとい長浜から帰ったにしたところで、手ブラで帰ったんでは、こうまで室内の面目を一変することはできない。つまり、米友が無事に――あんまり無事でもなかったけれども、とにかく、馬に積んだ荷物を、ほとんど遺失と損傷なしに引っぱって、ここまで戻ったればこそ、今晩こうして、お雪ちゃんをして新しい気分に喜ばしめることができたのです。
 ごらんなさい、新しいのは、単にお雪ちゃんが雪のような指先であしらっている庖丁ばかりではありません、その下に据えた俎板(まないた)も、野菜を切り込む笊(ざる)も、目籠(めかご)も、自在にかけて何物か煮つつある鍋も、炉中の火をかき廻す火箸も、炉辺に据えた五徳も――茶のみ茶碗も、茶托も――すべて眼に触るるものがみんな新しい。ただ古いのは自在竹の煤(すす)のついたのと、新鍋(あらなべ)の占拠によって一時差控えを命ぜられている鉄瓶だけぐらいのものですから、この室内すべてを照明するところの光の本元としての燈明台(とうみょうだい)も、むろん最も新しい物の一つであるし、その中の燈明皿も、油も、とうすみも、一切が新しいのですから、お雪ちゃんの眼に見て、タングステン以上にまばゆく感じ、且つまたそれが気分までを明るく、心持よくしたのは無理もないことです。
 それを今、仕事をしながらお雪ちゃんが感謝の意を表したのだが、米友としてはそんなに有難くは受取らない、ただお雪ちゃんが言いかけて、言うことを沮(はば)んでしまったようなただいまの一句、「まるで、お嫁さんにでも……」と言った言葉尻をとらまえてしまいました。
「そうだなあ、まるでお嫁さんでも……」
と米友が続けてみたが、そこで、また何とつづけていいのか、さすがの米友が擬議しました。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
とお雪ちゃんは、何がおかしいか笑いました。
「取ったようだな」
と、お雪ちゃんに笑われたので、米友があわてて木に竹をついだように言葉をつづけました。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と、お雪ちゃんがまた笑いました。
 木に竹をついだような米友の言葉の前後をつづり合わせてみると、「まるで、お嫁さんでも取ったようだな」と、こういうのであります。お雪ちゃんとしては、この際、米友がガラにもなくお嫁さんを引合いに出したそれがおかしいのではなかったのです。なぜならば、お嫁さん……ということを言い出して口籠(くちごも)ったのは、それはかえってお雪ちゃん自身にあるのですから、米友が、その言葉尻を受けついだからといって、何もおかしがって笑うことはないのです。といって特別に笑わなければならぬほどのおかしいことはなかったのですが、箸が転んでも笑いたいという年頃なんでしょうから、米友さんそのままの存在と、あたりの新しいものずくめが、ついお雪ちゃんの気を、こんなに快活にしたものと見なければなりません。
 だが、また一方、米友としても、たとい人の言葉尻をとらまえたにしてからが、お嫁さんがどうしたとか、こうしたとかがらにないことを言い出すのが変だと思えば思われないことはないのですけれども、それとても、必ずしも米友の独創というわけではなく、
源ちゃんと言っても
返事がない
お嫁さんでも
取ったのかい――
という俗言が、ある地方には存在している。それを米友が思い出したから、ガラになくこの際応用を試みただけのものなんでしょう――そう種が知れてみれば、いよいよ以て笑うべきことでもなんでもないのですが、少ししつこいが、これをお雪ちゃんが最初いった言葉尻と比べてみると、少しばかり「てにをは」の相違があるのでした。つまり米友は室内の調度がこんなにすべて新しいのは、「お嫁さんでも取ったようだ……」という単純明白な譬喩(ひゆ)の一シラブルになるのですが、お雪ちゃんのは、「お嫁さんにでも……」で、あとは消滅してしまったのですから、極めて曖昧(あいまい)なものなのです。なお、うるさいようですが、文法上もう少し立入って見れば、「お嫁さんでも」というのと「お嫁さんにでも」というのでは、主格に根本的の異動が生じて来るわけあいのものなのです。
 お雪ちゃんに笑い消されたにも拘らず、米友がそれからまた、何かじっと一思案をはじめて、炉に赤々と燃えている火に眼をつけて放たなかったのは、やや暫くの間のことで、やがて、その面(かお)を上げて、眼をまたしてもお芋の皮をむくお雪ちゃんの手許(てもと)に据えながら、
「お雪ちゃん、お前(めえ)はお嫁さんに行く気はねえのかい」
「いやな米友さん」
 お雪ちゃんは、はにかんだけれども、米友はまじめなもので、
「おいらは、思うがな、お雪ちゃん――若い娘は、なるべく早くお嫁に行った方がいいと思うんだが……」
「まあ、米友さんが、お爺(とっ)さんのようなことを言い出しました、ホ、ホ、ホ」
「おいらは、ためを思って言うんだぜ」
「それは、わかってますけれどもね……ホ、ホ、ホ」
 若い娘はなるべく早くお嫁に行った方がいい、つまり虫のつかないうちに、恋愛を知らないうちに結婚せしめよ……主婦之友の相談係でも言いそうなことを、米友の口から聞かされることが、お雪ちゃんには予想外だったのか。但し、相手はいわゆるためを思ってくれて、親切に言い出されたものに相違なかろうが、お雪ちゃんとしては、そういうことに触れると、何か現実のいたましいとげにでも刺されたような気にもなると見え、
「米友さん、そんな話はよしましょうよ、長浜で見た、何か珍しいことをお話しして頂戴な、長浜ってところは、昔太閤様のお城があったところでしょう、今でも人気が大様(おおよう)で、大へんいいのですってね」
「うむ、湖辺へ出ると、なかなか景色はいいな」
「綺麗(きれい)な娘さんがいたでしょう」
「さあ、それはどうだったか」
 きれいな娘がいたかどうか、そのことはあんまり米友としては観察して来なかったらしい。
 しかし、お雪ちゃんの、綺麗な娘さんがいたでしょうとわざわざ尋ねたのも、べつだん心当りがあって言ったのではなく、京都は美人の本場、長浜も京都に近いところだから、婦人たちも相当に美しいだろうと、こういう淡い想像に過ぎなかったのです。
「大通寺って大きなお寺がありましたでしょう」
「そうさなあ――別においらはお寺を見に行ったわけじゃねえんだが」
「あのお寺の大きな床いっぱいに、狩野山楽の牡丹(ぼたん)に唐獅子が描いてあって、とても素晴しいのですってね、米友さん見なかった?」
「おいらは絵を見に行ったわけじゃねえんだ」
「じゃ、そのうち出直して、一緒にまいりましょうよ、長浜見物に……」
「もう少し待ちな、今は世間が物騒だから」
「どうしてですか」
「どうしてったって」
 そこで米友は、今日経験して来たところの要領を、お雪ちゃんに向って物語ったのです。そうすると、お雪ちゃんが眼をまるくして、
「まあ――よく無事に来られましたねえ」
 容易ならぬ危難を突破して来た米友の冒険をはじめて知りました。
 そうしてみると、新婚当夜ほどの新しい気分を与えてくれる今晩の調度も、相当の犠牲なしには得られなかった恩恵であることが一層深く感ぜられ、お雪ちゃんは幾度(いくたび)か米友の労をねぎらって、やがてお芋の皮をむくことが終ると、お茶をいれ、お茶菓子を出して、二人で飲みはじめました。

         十九

 二人がお茶を飲みはじめていると、急に自在の新鍋(あらなべ)が沸騰しました。
 これは、あんまり二人が仲よく茶を飲んでいるものですから、新鍋が嫉妬(やけ)を起して沸騰をはじめたというわけではありません。
 もう煮え加減が、ちょうど沸騰すべき時刻に達したから沸騰したまでのことで、沸騰すると同時に、鍋の蓋(ふた)のまわりから熱湯がたぎり落ちかかったのも当然であります。が、その沸騰の泡(あわ)が火の上に落ちて、そこで烈しいちんぷんかんぷんが起り、灰神楽(はいかぐら)を立てしめることは、甚(はなは)だ不体裁でもあり、不衛生でもあり、第一、またその灰神楽に、せっかくの静かな室内と新しい調度を思うままに攪乱(こうらん)せしめた日には、せっかくの新婚当夜のような新しい気分が台無しになるのです――そこは米友が心得たもので、いざ沸騰と見ると、飲みかけた茶碗を下へ置いて、つと猿臂(えんぴ)を伸ばして、その蓋をいったん宙に浮かせ、それから横の方へとり除けて、座右の真向(まっこう)のところへ上向きに置いたのです。
 それがために空気の圧力も急に加わったものですから、沸騰力も頓(とみ)に弱められて、危なく灰神楽の乱調子で一切を攪乱せしめることを免れしめました。こういう早業にかけては、けだし米友は天才の一人であります。
 さて、鍋蓋を取払って見ると、新鍋の中は栗でした。
 さいぜんから暖められていた鍋の中のものは、栗が茹(ゆ)でられていたのです。そうすると、お雪ちゃんは火箸を鍋の中にさし込んで、その茹でられた栗の中から大きいのを一つ摘み出して、さいぜん米友が上向きに炉の真向のところへ置いた鍋の蓋の上に載せ、
「友さん、ゆだり加減はどうですか、ひとつお毒味して頂戴な」
「よし来た」
 米友はそれを受取って、吹きさましながら皮を剥いて、食べ試み、塩梅(あんばい)を見ながら、
「そうさ、もう一時(いっとき)うでた方がいいだろう」
「そう」
 で、新鍋は蓋を取られたまま、熱湯を縁(ふち)から落さない程度でしきりに沸騰をつづけておりました。
「明日は、これでキントンを拵(こしら)えて、友さんにも御馳走して上げますよ」
「有難え」
 きんとんをこしらえて、友さんにも御馳走をしてやるという言葉で、友さんにだけ御馳走するのでなく、友さん以外の人にも御馳走してやるという心構えがよくわかります。
 事実――お雪ちゃんが、こうして引続き野菜の料理専門にかかっているのは、この変態家族の賄方(まかないかた)を引受けているというのみならず、このごろ入れた幾多の普請方の大工、左官、人足などにまで配布すべきお茶受けの糧(かて)までもその手であしらっているのでした。
 しかしもう、料理方の日課としてのたいていは済ましてしまって、今はこの栗のゆだり上りを待つだけの閑散になりましたから、そこでまたお茶を一ぱい。
 二人はこうして、静かな秋の夜にひたり得る無心の境地を味わいました。

         二十

 かくて二人は、極めて無心、平和、閑寂なる空気のうちに茶話を楽しみましたが、暫くして仲よく銭勘定にかかりました。
 その時分には、もう栗もすっかりゆだり上ったから、新鍋は現役を退いて流し元の方に差控えさせられて、新鍋の代りに、古いほど味の出るという南部の鉄瓶(てつびん)が、燻(くす)ぶった旧地位を自在の上に占有しています。
 米友が炉辺に近く担(かつ)ぎ出した千両箱、それを座敷の真中にザクリとひっくり返した時に、二人が思わず眼を見合わせました。
 深夜の物音としては、意外にそれが響き過ぎたからです。
 その以前、根岸の化物屋敷で、七兵衛所有に属する金箱を、お絹にそそのかされた神尾主膳が突き破ってみたような、あんな不義不正なる物音とは比較にならないが、しかし、静かな夜中に思いの外、異った大きな音がしたものですから、二人は面(かお)を見合わせたのみならず、お雪ちゃんの如きは蛇にでも襲われたもののように、遠く一間ばかり飛びのいたくらいでしたけれども、つもってみればこれは少しも怖ろしい性質のものではなく、れっきとした所有主のお銀様から、用心棒としての米友が託されて、長浜まで両替に行って来たこの金銭――それを今、保管と収支とを託されているお雪ちゃんが、手にかけて、米友に手伝ってもらって計算に当ろうというのだから、形式に於ても、良心に於ても、少しも咎(とが)むべき筋ではないのであります。
 ですから、いったん脅迫観念に襲われたお雪ちゃんも、たちまち思い直して近く寄って来て、散乱したのを掻き集めながら、改めて米友と共に、この小銭の山の取崩しから計算記帳にとりかかりましたのです。
 この小銭を、種類によって、ザクリザクリとわけて数えながら言いました、
「有るところにはあるもんだなあ、金というやつは――」
「ほんとに、そうですね、有るところには有るものです、あのお嬢様のお家には、いったいどのくらいあるんでしょうかしら」
とお雪ちゃんが相槌(あいづち)を打つと、米友公が、
「有るところにはあるが、ねえとなるとまるっきりねえのが金だ」
「全くその通りよ、お金持のところには唸(うな)るほどあっても、貧乏人のところには薬にしたくもないのですから」
「有るところには有り過ぎるほどあって、ねえところには無さ過ぎるほどねえ、そのくせ、誰もみんなこいつを欲しがっていることは同じなんだが、どうしてまた、こいつが集まるところへはうんと集まり、来ねえところへはちっとも来やがらねえんだろう。ケチな野郎だな、この銭金(ぜにかね)という野郎は……」
 米友は数えかけた天保銭を二三枚取って、畳の上に叩きつけました。

         二十一

 宇治山田の米友は、特に銭金に数々の恨みがあるというわけではないが、また生立ちからしても、そう多分に銭金に恵まれつつ育って来た男ではないこと申すまでもありません。

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