大菩薩峠
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著者名:中里介山 

「いや、どうも恐縮千万、実はね、この胆吹山へ薬草を調べに、道を枉(ま)げてやって来たものでげすが、どうもはや、慣れぬことで、道を枉げ過ぎちまったものでげすから、いやはや、あっちの谷へ転げ落ちては向う脛(ずね)を擦りむき、こっちの木の根へつっかかっては頬っぺたを引っこすられ、ごらんの通り、衣類はさんざんに破れ裂け、身体はすき間もなく掻傷、突傷、命からがらこれまでのたりついたでげす、いやはや、木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊という譬(たと)えは古いこと、薬草取りに来て、生命を取られ損ないなんていうのは、お話にならねえんでげす、これと申すも日頃の心がけがよくねえからでげす、今日という今日は骨身にこたえたでげす」
 下の生温い音声を発する動物は、引きつづきだらしのない声でべらべらとこんな言葉を吐き出したのが、意外にもギックリと米友の胸にこたえました。
「おや――お前(めえ)は、おいらの先生じゃあねえか」
「おやおや、そう言うそなたの声に聞覚えがある、たしかに友兄(ともあに)いにきわまったり、友兄いとあれば天の助け、ここで会ったが百年目!」
 生温い、だらしのない、歯切れの悪い上に、これはまた何というキザたっぷりの緞帳臭(どんちょうくさ)い返事だ!

         三十五

 ともかくも、宇治山田の米友は道庵先生を引き上げて、以前再三繰返された場面の炉辺に持って来て押据えました。
 この時、お銀様の姿は、もうここには見えませんでした。奥の一間も、ひっそりかんとしたものです。
 奥の一間のひっそりかんとしたのは今に始まったことではないが、お銀様のいずれへ消えたかということは、多少の問題にならないではありません。まさか、ひっそりした奥の一間の平和をかき乱さんがために、あれへ闖入(ちんにゅう)したものとも思われません。その証拠には、現に、奥の一間の平和の空気が、少しも攪乱(こうらん)されている模様のないことでわかります。
 してみると、多分、あの母屋へつづく、あの廊下口から出て行ってしまったものに相違ありますまい。なるほど、そう言われて見ると、さきほど米友がお雪ちゃんの頼みで固く締切った時とは違って、戸前が少しゆるんでいる――お銀様は、たしかにあれから母屋の方へ、ともかく引上げ去ったと見るほかはありますまい。
 炉辺へ持って来て押据えた道庵を見ると、これはまた、あんまりだらしがないのも、こうなると寧(むし)ろ悲惨な心持がして、米友も、腹を立てる気にもなれませんでした。
「先生、なんてザマだい、そりゃ……」
「済まねえ――」
 呂律(ろれつ)が廻らないだけならいいが、身体の自由が全く利(き)いていないのです。飲み過ぎて身体の自由の利かないことは、この先生としてはあえて異例ではないのですが、今晩のは、只事ではない。全く、さいぜん生温い声で助けを呼んだ言い分と同様、衣服は裂け、面(かお)と言い、手といい、向う脛(ずね)と言い、露出したところはすり創(きず)、かすり創、二目と見られたものではないのです――でも、申しわけのためかなんぞのように、左の片手には、薬草を一掴み掴んで、放そうとはしていない。それも、やはりさいぜん、薬草をとるべく来って、道を枉(ま)げたとか、道に枉げられたとかいう、生温い声明が無ければ、米友といえども、薬草であることは知るまい。溺るるものは藁(わら)をもつかむということだから、崖をでも辷(すべ)り落ちる途端に掴んだ草の根か馬の骨をそのまま、掴み通しにして来たとしか思われないでしょう。
 幸いに、不幸中の幸なのです、その擦り傷、かすり創というのも大したことではありませんでしたから、米友が、手拭をお湯で絞って、少しずつ拭いてやると、ごまかしが利いてしまう。
 その間も道庵は、ほとんど正気がないのです。相手が米友とは、いったん心得たようだが、それも、もう忽(たちま)ち見境いが無くなってしまったらしく、妙な手つきをして、四方を撫で廻した刷毛ついでに、米友の面を撫でてみたりして、気味を悪がらせていたが、その朦朧(もうろう)たるまなざしに早くも認めたのが、ずっと宵の口から問題になっていた、お雪ちゃんの米友のためにとて取り出して置いた夜具蒲団でした。
「占めた――もうこれよりほかにこの世に望みはねえ、世の中に寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿が起きて働く……これがこの世の後生極楽」
 減らず口だけはなかなか達者で、いきなりその夜具蒲団にかじりつくと、無我夢中でそれを敷き並べ、枕を横にあてがうと、頭から夜具をかぶって――早くも鼾(いびき)の声をあげました。
「ちぇッ――いつになっても、人に世話を焼かせる先生だなあ」
 手ずから夜具をひっかけたけれども、両足が蝸牛(かたつむり)の角のように突き出しているのを、米友がかけ直して、つくろってやり、そうして自分はまた炉辺へ戻って沈黙に返る時に、鶏が鳴きました。

         三十六

 脱線は道庵の生命である。脱線が無ければ道庵が無いというほどの事の道理を知り過ぎるほど知り、味わい飽きるほど味わわされている米友にとっては、事柄そのことは驚異ではありませんでした。ただ、脱線である以上は、どこまでも脱線でなければならないのです。脱線でも線という名のつく以上は筋道があるはずなのです。つまり脱線はいか様に突っ走ろうとも脱線であって、無軌道ではないはずです。
 従来とても道庵の行動に於て、そのほとんど全部を脱線として認められてもやむを得ないものがあるけれども、これを無軌道、無節制、無道徳、無政府と見てはいけないのです。
 ところが、今夜という今夜、道庵が今時分になって、胆吹の山中へ迷い込んで、命からがらの目に逢わされているということは、もはや脱線の域ではなく、無軌道の境に入っている。無軌道というよりはむしろ墜落の部に類する。つまり破天荒の行動といわなければなりません。
 脱線と言い、無軌道と言ってみたところで、その行状がいかに滅茶であり、無茶であり、常軌を逸していたところで、それはまだ地上の区域に即しての行動にほかならぬのですが、墜落となってはもはや地球上の振舞ではなくして、無限の空間的行動、人類が二十世紀以後に至ってはじめて常識として受取ることのできた飛行機時代に至って、初めて現われたところの現象、でなければ日本に於ては元亨釈書(げんこうしゃくしょ)の記す時代に遡(さかのぼ)って、大和の国久米(くめ)の仙人あたりにしか許されなかった実演、でなければそれよりさき、奈良朝時代に華厳宗(けごんしゅう)の大徳良弁(ろうべん)僧正の幼少時代に於て現出された――それは、今般、ここらでお馴染(なじみ)になっている猛禽と同様、鷲(わし)のためにさらわれた幼児としての良弁僧正が経験した空中から地上への墜落、飛行機以前に於ても右様な実例、空中から地上へ人間が降るという右の二つの歴史に就いて考えてみましても、それは、今晩の道庵の身の上には甚(はなは)だ適切にはあてはまらないのです。道庵がまだ地上の代物(しろもの)であって、仙人の通力を授かっていないことは申すまでもないが、考証を正確にするために、ここに元亨釈書の和解の一節を掲げてみましょう。
「久米仙ハ大和国上郡ノ人ナリ、深山ニ入テ仙法ヲ学ビ松ノ葉ヲ食シカツ薜茘(へいれい)ヲ服セリ、一旦空(くう)ニ騰(のぼ)ツテ故里(ふるさと)ヲ飛過グルトテ、タマタマ婦人ノ足ヲ以テ衣(きぬ)ヲ踏洗フヲ見タリシニ、ソノ脛(はぎ)ハナハダ白カリシカバ忽(たちま)チニ染著(せんぢやく)ノ心ヲ生ジテ即時ニ堕落[#「堕落」はママ]シケリ、ソレヨリ漸(やうや)ク煙火ノ物ヲ食シテ鹿域(ろくゐき)ノ交(なか)ニ立却(たちかへ)レリ、サレドモ郷里ノ人モシクハ券約ノ証文ニ其名ヲ連署スル時ハミナ前仙某ト書キタリケリ……」
 右の一節と比較してみても明らかなる如く、道庵は「深山ニ入テ仙法ヲ学」ばんためにこの胆吹山に来たのではなく、「松ノ葉」を食せんがために来たのでもなく、ただ、やや類似しているのは「薜茘」をどうかしようとの学術的探究心に駆(か)られたのでありまして、久米仙あたりとは、根本的に性質と目的とを異にしている。それにです、第一、相手方の方にして考えてみても、今時、この胆吹山の山腹あたりに、十八文の先生風情に向って誘惑を試むべく、ふくらっ脛(ぱぎ)の白いところを臆面なく空中に向って展開しているような、洒落気(しゃれけ)満々たる女があろうとは思われないし、また、先刻の大きな鷲(わし)にしてからが、良弁(ろうべん)とか弁信とかいったような可愛らしい坊主の頭の一つもあれば、さらってみようとの出来心を起すかもしれないが、この薄汚ない、拾ったところで十八文にしかならない老爺を、わざわざ重たい思いをして空中まで引き揚げてみようという好奇心も起らないでしょう。
 してみれば、道庵先生が今晩このところへのたり着いたのは、結局、脱線でもなく、無軌道でもなく、墜落でもなく、要するに尋常一様の平凡にして最も常識的なる行動のとばっちりと見るほかはないので、事実もまたその通り。その最もよく証明するところのものは、この時に至るまで、今も現に縦の蒲団(ふとん)を横にしてのたり込んだ寝床の中までも、しかと片手に握って放さないところの一片の草根木皮が、それを有力に説明するのであります。
 道庵先生こそは、実に薬草を採取すべく、乃至はそれを調査すべく道を枉(ま)げて、この胆吹山に入りこんだのであります。
 医者が薬草をとる――天下にこれほど当然にして常識的な行動はない。酒屋が酒を売り、餅屋が餅を売り、車曳(くるまひき)が車を曳き、犬が西へ向けば尾が東ということほど、自然にして通常な行動であり、ことにまた、その胆吹山という山が薬草の豊富を以て天下に聞えた山であるという以上は――それは明らかに歴史も証明し、実際も裏書きする――織田信長が天主教に好意を持っていた時分に、この山を相して薬園の地とし、外国種の薬草三千種を植えたという事蹟は動かせないことだし、更にその以前に遡(さかのぼ)って見ると、延喜式の中に典薬寮に納むる貢進種目として「近江七十三種、美濃六十二種」とある薬草は、そのいずれの方面よりするも必ずや、この胆吹山によるところの薬草が大部、ほとんど全部を成しているであろうことは信ぜられるのですから、いやしくも医学に志あり、本草に趣味を有する人にとっては、この胆吹山は唯一無二の宝の山といってもよいのです。されば、職に忠実であり、学に熱心であるところの日頃心がけのよい道庵が、この山に突入することが当然で、突入しないことがむしろ外道(げどう)であり、怠慢であるという理窟になるのですから、その点から考慮しても、道庵の胆吹入りは、脱線でもなければ無軌道でもなく、また墜落でもないことの証言は成り立つのです。
 ただ、もう少し追究すると、そんならそれで、従者なり、案内人なりを連れて、白昼やって来ればよいのに、この真夜中に、こういう危険を冒(おか)してまで探究しなければならぬ必要と、薬草とがあるか? というようなことになるのですが、それは専門家としてのこの先生に減らず口を叩かせると、本来、薬草というものは、見物に来るべきものではない、臭いをかいでなるほどとさとるものもある、臭いをかぐには深夜に限る、なんぞと理窟をこねるかも知れない。また草木の真の植物的機能を知るために――草木といえども、動物と同様に休息もすれば、睡眠もとる機能がある、それを観察するために、わざと深夜を選んだという理由も成り立たぬことはないでしょう。ことにまた植物の葉というものは、空気に先だちて暖まり、空気に先だちて冷ゆるものであるから、葉温は空気の温度に支配せらるるというよりも、むしろ葉温が気温を支配するというのが至当であるという見地から、植物の葉の温度は、日中には著しく気温よりも高く、晴夜には著しく気温よりも低いということの実験を重ねるために、わざわざ深夜を選んだということの理由も成り立たないではないが、地方から最近転任のお巡りさんが、挙動不審犯を交番へ連れ込んだ時のように、この先生の行動の出処進退を調べ出しては際限がない。第一、この胆吹山へ突入までの石田村の田圃(たんぼ)の中で、衣裳葛籠(いしょうつづら)を這(は)い出して、田螺(たにし)に驚いて蓋をさせたあの場を、どうして、どういうふうに遁(のが)れ出して、この胆吹山まで転向突入するまでに立至ったのか、その証拠固めをして、辻褄(つじつま)を合わせるだけでも、容易な捜索では追っつかないが、それは酔いのさめる時を待って徐(おもむ)ろに訊問をつづけても遅くはあるまいが、要するに、道庵は道庵として職に忠実にして、学に熱心なるのあまり出でた、全く無理のない行動をとって、ここに縦の蒲団を横にして、上平館(かみひらやかた)の松の丸の炉辺に寝込むまでの事情に立至ったことを、信じて置いていただけばよろしいのです。

         三十七

 右の如くして道庵先生の行動に関する限り、挙動不審は一応晴れたけれども、この麓(ふもと)の宿には、それ以上に解(げ)せぬ一行が陣取っているのであります。
 春照(しゅんしょう)の高番(たかばん)という陣屋に、夜もすがら外には篝(かがり)を焚かせ、内は白昼のように蝋燭(ろうそく)を立てさせて、形勢穏かならぬ評議の席がありました。
 事の体(てい)を見ると、これはこのほど来、麓の里を脅(おびやか)したところの、子を奪われた猛禽(もうきん)の来襲に備えるべく村の庭場総代連が警戒の評議をこらすの席とも思われず、さりとて長浜、姉川、その他で見かけた一揆(いっき)の雲行きに似たところの人民の集合のような、鬱勃たる粛殺味(しゅくさつみ)も見えない。相当緊張しているにも拘らず、甚(はなは)だ間が抜けて、卑劣な空気が漂うているところに多少の特色がある。
 その面触れを見渡すと――ははあ、なるほど、枇杷島橋(びわじまばし)以来の面ぶれ、ファッショイ連、安直、金茶、なめ六、三ぴん、よた者――草津の姥(うば)ヶ餅(もち)までのしていたはずなのが引返して、ここは胆吹山麓、春照高番の里に許すまじき顔色(がんしょく)で控えている。
 特に今晩は、あの御定連(ごじょうれん)だけではない、正面に、安直の一枚上に大たぶさの打裂羽織(ぶっさきばおり)が控えている。これぞ彼等が親分と頼む木口勘兵衛尉源丁馬が、特に三州方面から駈けつけたものと見受けます。
 木口が床柱を背負うと、安直がその次に居流れ、そこへまた例の御定連が程よく相並ぶと、やがて次から次、この界隈でも無職渡世と見えるのが馳(は)せ集まって、いずれも膝っ小僧を並べて、長脇差を引きつけ、あんまり睨(にら)みの利かない眼をどんぐりさせながら、精々凄味(すごみ)を作っている。
 土間を見ると大根おろし、掻きおろしが十三樽。
「古川の――」
と安直が、らっきょう頭をゆらりと一つ振り立てると、
「はい、安直兄(あに)い、何ぞ御用で……」
としゃしゃり出たのが、古川の英次という三下奴(さんしたやっこ)です。そうすると親分の側にいたあだ名をダニの丈次という三下奴が、
「てめえ、なかなか近ごろの働きがいいで、木口親分のお覚えがめでてえ、じゃによってお余りを一皿振舞っておくんなさるから、有難くいたでえて、三べん廻ってそこで食いな」
と言うと、古川の英次が、ペコペコと頭を下げて、
「兄い、有難え、可愛がってやっておくんなせえ、じゃあ、遠慮なしにいただきやすぜ」
と言って、古川の英次という三下奴が、木口親分から廻って来た食い残しのライスカレーみたような一皿を、ダニの丈次の手を通して押しいただき、ガツガツと咽喉(のど)を鳴らして、食いはじめました。
「旨(うめ)えか」
「旨え、旨え、木口親分のお余りものと来ちゃあ、また格別だ」
「おい、下駄っかけの時次郎、てめえも来て、親分のお余りものに一皿ありつきな」
「有難え」
と言ってしゃしゃり出たのは、下駄っかけの時次郎という、これも新参の三下奴。ダニの丈次が勿体(もったい)ぶって、
「手前たち、よく木口親分のお手先になって忠義をはげむによって、親分から、こうして残りものをしこたま恵まれる、親分の有難味を忘れちゃならねえぞ」
「どうして忘れていいものか、おれたち一騎の器量じゃあ、とても、芥箱(ごみばこ)の残飯にもありつけねえのが、こうして結構な五もくのお余りにありつくというのは、これというもみんな親分の恵み、そこんとこはひとつ安直兄いからよろしくおとりなしを頼みますぜ、ちゃあ」
と言って、古川の英次と、下駄っかけの時次郎が、木口親分と、安直兄いの前へ頭をペコペコと三つばかり下げて、そこの座敷を三べんばかり廻ると、しゃんしゃんと二つばかり手を打って元の座に戻りました。
「下(しも)っ沢(さわ)の勘公――てめえ、また何というドジを踏みやがったんだ」
「兄い、済まねえ」
 ダニの丈次の前へ、下っ沢の勘公がペコペコと頭を下げる。
「せっかく隠し穴をこしらえて、今度という今度は、十八文をとっちめたと安心をしていると、また、つるりと脱けられて、上げ壺を食わされた、のろま野郎――勝手口へ廻って、当分のあいだ窮命していろやい」
「面目(めんもく)しでえもねえ」
 以前の二人の三下は、親分の覚えめでたく、たっぷりとお余りものにありついているにかかわらず、哀れをとどめた一人の三下は、台所へ追放を命ぜられてしまったのは、何か相当重大な過失があったと見える。そこで、一座が甚だ白け渡った時分に、突然、
「江戸ッ子、いやはらんかな、江戸ッ子一人、欲しいもんやがなあ、こちの身内に、江戸ッ子一人いやはらんことにゃ、わて、どもならんさかい、ちゃあ」
と、不安らしく呼びかけたのは、安直兄いでありました。
 安直兄いが、どうして、こんなに不安な音色を以て呼びかけたか、その内容は、まだよく分明しないけれども、この際、兄いが味方のうちに、一人の有力なる江戸ッ子を欲しい、という希望を述べ出したものであることだけはわかるのです。そこで、一座のおたがいが、改めて一座のうちを見廻しました。
 安直兄い――の渇望する江戸ッ子らしい、アクの抜けたのは、あいにく御同座のうちに一人も居合わさない。いずれを見ても山家育ち。よんどころなく、古川が、
「下駄っかけの兄い、お前(めえ)は江戸ッ子じゃなかったけエ」
 下駄っかけの時次郎が、正直そうにかぶりを振って、
「おらあ、江戸ッ子じゃねえ、浜ッ子だ」
「浜ッ子、そいつは知らなかった、お前は江州生れだったかいのう」
と古川の英公がいう。
「なあーに」
と、下駄っかけが生返事。このところ受け渡しが要領を得ないのは、浜ッ子といったのを、古川がさし当り江州長浜ッコと受取ったものらしい。
「ちゃあ」
 安直が歯痒(はがゆ)がって、焦(じ)れると、せいぜい凄味をつけた一座がテレきってしまいました。
「あの憎い憎い十八文の奴め、江戸ッ子を鼻にかけて、どもあかん。江戸ッ子やかて、わて、ちょっとも怖れやせんけどな、わて、阪者(さかもん)やによって、啖呵(たんか)がよう切れんさかい、毒をもって毒を制するという兵法おますさかい、江戸者を懲(こ)らすには江戸者を以てするが賢い仕方やおまへんか、あの十八文に楯(たて)つく江戸者、一人探してんか、給料なんぼでも払いまんがな」
 安直兄いは、こう言ってまた更に一座を見廻したものです。一座の者には、よく安直の心持がわかる。
 一旦は中京の地に於て食いとめようとして見事に失敗し、関ヶ原ではかえって相手の大御所気分を煽(あお)ってしまい、近江路は、草津の追分で迎え撃って手詰めの合戦、と手ぐすね引いていると、早くも敵に胆吹山へいなされてしまった――さあ、残るところは宇治、勢多の最後の戦線である。だが、この宇治、勢多というやつが、古来、西軍が宇治、勢多を要して勝ったためしが無い。よって、有無(うむ)の勝負はこの胆吹山――ここで敵と目指す道庵を、石田、小西の運命に追い込んでしまわないことには、京阪の巷(ちまた)がその蹂躙(じゅうりん)を蒙(こうむ)る。
 そこでとりあえずこの場の第一線に作らせた落し穴が、下(しも)っ沢(さわ)の勘公の間抜けで、やり損ないという段取りとなり、些少の擦創(すりきず)、かすり創だけで道庵を取逃がした以上は、第二の作戦に彼等が窮してしまいました。安直が悲鳴に類する叫びをあげて、江戸ッ子、江戸ッ子と続けざまに叫んだのは、もうこの上は毒を以て毒を制するの手段、つまり、江戸ッ子を以て江戸ッ子を抑えるの手段に出でるほかには詮方(せんかた)無しとあきらめたものでしょう。
 ところが――この一座に江戸ッ子が一人もいない、一座が荒寥(こうりょう)として、悲哀を感じたのはこの時のことでありました。
 ところへ、どうでしょう、にわかに表の方に人のおとずれる物音あって、
「親分――兄い、変なところでお目にかかりやすが、まっぴら御免くだんせえ」
と、また一種変ったなまりの声が聞えて、襖が左右へあけられたと見ると、そこへ現われたのは、江戸相撲で三段目まではとり上げた松風という相撲上りでありました。

         三十八

「おお、松風、いいところへ」
「どうして、ここがわかったエ」
「いや、道中、ちっと聞き込んだものでごんすから、多分、丁馬親分や、安直兄いもこちらでごんしょうと、わざわざたずねて来やんした」
「よく来てくれた、一人か」
「ほかに、連れが一人ごんす」
「じゃ、こっちへ通しな」
「連れて来てようごんすか」
「遠慮は要らねえ、友達かエ」
「いや、わっしの川柳の師匠でごんす」
「おや、川柳の師匠、てめえ洒落(しゃれ)たものを連れて歩いてやがるんだな」
「師匠は江戸ッ子でごんす」
「なに、江戸ッ子!」
「およそ大名旗本の奥向より川柳、雑俳、岡場所、地獄、極楽、夜鷹、折助の故事来歴、わしが師匠の知らねえことはねえという、江戸一の通人でごんす」
「そいつぁ、耳寄りだ」
「天から降ったか、地から湧いたか」
「丁馬親分――安直兄い、およろこびなせえ」
「何はともあれ、その江戸ッ子の大通先生を、片時(へんじ)も早くこの場へ……」
「合点(がってん)でごんす」
 暫くあって、ひょろひょろとこの場へ連れて来られた一人の通人がありました。見受けるところ年の頃は道庵とほぼ近いし、気のせいか背恰好(せいかっこう)もあれに似たところがある。それを見ると木口親分もグッと気を入れたが、安直が思わず膝を進ませ、
「あんたはん、ほんまに江戸ッ子でおまっしゃろ」
 まかり出た通人がグッと反身(そりみ)になって、
「わっしゃあ、よた村とんびという江戸ッ子でげす、お見知り置きが願えてえ」
「ナニ、四(よ)ツ谷(や)鳶(とんび)だって――」
 無躾(ぶしつけ)に下駄っかけが頓狂声を揚げたのを、
「おお、これは、よた村の先生、よくござったの、かねて御高名は承り及びました」
 木口親分が、愛想を言って、とりつくろいました。よた村なにがしと通人が名乗ったのを、そそっかしい下駄っかけが、よつやっとんび(四ツ谷鳶)と早耳に聞いてしまったのでしょう。それを取りつくろって木口親分が、
「先生、江戸はどちらでござるな」
「わっしゃあ、江戸は江戸だが、江戸を十里離れて……」
「え、江戸を十里離れて……」
「武州八王子の江戸ッ子でがんす」
「八王子の江戸ッ子……」
 一座がここで、またちょっとテラされました。江戸ッ子ということに重きを置いて、江戸はどこと聞いたら、神田とか、本所深川とか、見栄にも切り出すものと期待していると、江戸ッ子は江戸ッ子だが、江戸を十里離れた武州八王子出来の江戸ッ子と聞いて、一座が早くも興ざめ面(がお)になったのを、そこは老巧なみその浦のなめ六が、体(てい)よく取りつくろって、
「いかにも、武州八王子――あれは小田原北条家の名将の城下、江戸よりも開府が古い、なかなか由緒あるところで、新刀の名人繁慶(はんけい)も、一時あれでたたらを打っていたことがござる」
「なるほど」
 なめ六のとりなしで、座なりが直ってくると、
「八王子は糸繭(いとまゆ)がようござる」
「織物の名所でござったな」
「お十夜(じゅうや)」
まではよかったが、
「八王子在の炭焼はまた格別な風流でござる」
「炭焼?」
「阿呆(あほう)いわずときなはれ、江戸で炭が焼けますかい」
 安直兄いがたしなめると、ダニの丈次が、
「でも、八王子在から出て来た炭焼だが、釜出しのいいのを安くするから買っておくんなせえと門附振売(かどづけふりう)りに来たのを、わっしゃ新宿の通りでよく見受けやしたぜ」
「ではやっぱり、江戸でも炭を焼くんだね」
「炭焼江戸ッ子!」
 こう言って口を辷(すべ)らしたものがあると、急に一座がわいてきて、
「炭焼江戸ッ子!」
「道理で色が黒い!」
 それをきっかけに、新来の大通人の面を見ながら、どっと一時に吹き出してしまいました。

         三十九

 ところが、通人もさるもの、存外わるびれません。
「君たち、まだ若い、そもそも武州八王子というところは、なめさんも先刻いわれた通り、新刀の名人繁慶もいたし、東洲斎写楽も八王子ッ子だという説があるし、また君たちにはちょっと買いきれまいが、二代目高尾という吉原きってのおいらんも出たし、それから君たち、いまだに車人形というものを見たことはあるめえがの――そもそも……」
 通人は車人形の来歴と実演とを型でやって見せた上に、
「近代ではまた、鬼小島靖堂という、五目並べにかけては無敵の名人のことはさて置き、鎌倉権五郎景政も八王子ッ子だと言えば言えるし、尾崎咢堂(がくどう)も八王子ッ子だと言えば言えるんだが、あいつぁ共和演説だからおらあ虫が好かねえ――それから学者で塩野適斎、医者の方では桑原騰庵……天然理心流の近藤三助、国学で落合直文(なおぶみ)――」
 通人は次から次と八王子ッ子の名前を並べて、
「君たち、八王子八王子と安く言うが、そもそも八王子という名前の出所来歴を知るめえな。江戸は江の戸だあな、アイヌ語だという説もあるが、大きな川が海へ注ぐ戸口だと見てさしつかえねえ、大阪は大きな坂だよ、大きな坂だから運賃が安いか高いか、それだけのことなんだが、八王子と来ると、もっと深遠微妙(じんおんみみょう)な出所来歴がある。君たちは知るめえが、そもそも八王子という名は法華経から来ているんだぜ。法華経のどこにどう出ているか、君たち一ぺんあれを縦から棒読みにしてみな、すぐわかることだあな。ところが、ものを知らねえ奴は仕方のねえもんで、近ごろ徳冨蘆花という男が、芋虫(いもむし)のたわごとという本を書いたんだ、その本の中に、御丁寧に八王子を八王寺、八王寺と書いている。大和の国には王寺というところはあるが、八王子が八王寺じゃものにならねえ、蘆花という男が、法華経一冊満足に読んでいねえということが、これでわかる……」
 こういう説明と気焔とを聞いているうちに、一座がまた感に入りました。なるほど、この老爺(おやじ)物識(ものし)りだ、色が黒いから「炭焼江戸ッ子」だなんて言ったのは誰だ! 上は法華経よりはじめて、江戸時代の裏表を手に取るように知っている。のみならず、この当時、母の胎内にみごもっていたか、いなかったかさえわからない徳冨蘆花という文学者の文字づかいの揚げ足までもちゃんと心得ている。それからまた、その皮肉な口のききっぷりが、どうやら目指す敵の道庵に似通ったところが無いでもない。
 こいつぁ儲(もう)けものだ!
 一座が意気込んで聞いているので、通人はようやく得意になり、
「君たちには、まだ江戸ッ子の定義と分類がわかるめえ、早い話が君たちぁ、昔の通人風来山人(ふうらいさんじん)平賀源内といえば忽ちちゃきちゃきの江戸ッ子と心得るだろうが、大きに違う、君たちぁ、十里離れた江戸ッ子だの、炭焼江戸ッ子だの、色が黒いのなんのと言うけれど、風来山人なんぞは、江戸を距(さ)る海陸百七十九里半、四国の讃州高松というところから出て来た四国猿の江戸ッ子なんだ。その四国猿の風来山人が、江戸ッ子で通るようになった因縁というものは……」
「もうたくさん――わかりました。時に大通(だいつう)、いいところへおいで下さった、我々の仲間で、ぜひ一つ通人に腕貸しをしていただきたいのはほかではない――他聞を憚(はばか)るによってちと……」
 そこで木口勘兵衛と、安直と、通人が鼎(かなえ)になって、ひそひそと物語りをはじめました。
 三下奴(さんしたやっこ)たちも三人の密談をさまたげまいとして、すべて控え目になると、この席がしいんとしてきました。
 ところが、この座席がしいんとしてくると同時に、襖(ふすま)を隔てた隣りの席がにわかに物騒がしくなりました。にわかに物騒がしくなったのではない、先刻からずいぶん物騒がしかったのですが、こちらがいきり立っているために、なかなか耳へ入らなかったのですが、今、こちらが控え目にして静まったために、隣り座敷の物騒がしさがひときわ冴(さ)えて聞え出したというものです。
 聞いていると、キャッキャッと言って引っかいたり、ワッと言って笑ったり、バタバタと物を捨てるような音がしてみたり、銭をバラバラと掻(か)き集めたりするような音がする。こちらがなんで静まり返ったかというようなことは一向おかまいなく、興に乗じてどっと崩れるような笑いが起きたり、また存外真剣になって張合っているような気色にも聞えたり、
「坊主」「青丹(あおたん)」「ぴか一」
「雨、あやめ」「三光」
というような声が洩(も)れて来る。ははあ、賭博(ばくち)をやっているな! 賭博の一種、花合せを――
 しかも、こちらのことにおかまいがなく、あまりにのぼせ上って賭博をしているものだから、こちらから下駄っかけの時次郎がたまりかねて、
「おい、もうちっと静かにしておくんなせえ」
 隔ての襖をサラリとあけて、たしなめ面をした。その隙間から見ると、いるいる、車座になってばくちの大一座。
 正面切ったのは、色の白い、ちょっとぼうぼう眉のお公卿(くげ)さんと見えるような大姐御(おおあねご)、どてらを引っかけて、立膝で、手札と場札とを見比べている。
 その周囲に居流れた雪の下の粂公(くめこう)、里芋のトン勝、さっさもさの房兄い、といったようなところが、血眼(ちまなこ)になって花を合わせている。
 一方には、別にまた自分の女房らしいのを賭け物に引据えて置いて、しきりに丁半を争う二人組もある。

         四十

 あだしことはさておき、上平館の一室の炉辺に於ては、宇治山田の米友が寂然不動の姿勢をとって、物を思いつつあることは以前の時と変りありません。
 このたびは、何かこんがらかった想像が、それからそれと思案に余るものがあると見えて、夜舟を漕ぐような懈怠(けたい)が無いのみならず、そのもてあます思案がいよいよ重くなると共に、頭も、眼も、相当に冴えてくるのです。ここでとうとう鶏が鳴いてしまいました。
 鶏が鳴いたといっても、必ずしも夜が明けたという意味にはならない。一鳥鳴いて山更に幽(かすか)なりということもあるのだから、時と人とによっては、これから日の出の朝までをはじめて夜の領分として、この辺から徐(おもむ)ろに枕につこうというのも多いのです。今の米友はそのいずれにも頓着はないのですが、胆吹の全山は、まだ鶏の一声によって呼び醒(さま)されてはいないのです。
 思案に耽(ふけ)る米友は、無意識に火箸の先で炉辺の軽い薪を取りくべながら、重い頭を垂らしていたが、ふと、
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
という声に驚かされて、その傍(かた)えを見やると、道庵先生が、縦の蒲団を横にして寝ているのです。
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」というのは、つまり右の道庵先生の、これぞ熟睡中に無意識に口を動かしたところの、うわごとのようなものでありました。
 そこで、米友は、また先生のために、夜具の片端を坐りながらちょっと引延ばして、なるべくその足の方の部分が露出しないようにと気を配ってやりながら、今、ムニャ、ムニャ、ムニャという発音をしたところの先生の寝顔を、見るともなく見やりました。
「御苦労のねえ先生だなあ」
と、その寝顔を見た時に、米友が改めて呆(あき)れ返るような表情をしました。
 顔面部には、前にいう通りに相当の負傷をさせられていながらも、その寝顔というのは、相も変らず人を食ったものだと思わずにはいられません。
 いかに疲労したにしても、この際、こうして平気で熟睡をとるのみならず、ムニャ、ムニャ、ムニャというような譫言(うわごと)を発するの余裕ある先生を、米友は呆れ返りもし、また、それとなく敬服もしているようなあんばいでした。
 しかしまた米友は、自分がこの先生みたような偉人になれない如く、この先生もまた自分のような小人になれないのだ――ということをも合せ考えさせられているようです。特にここに偉人と言ったのは、人格的の内容を持った意味のものではなく、単に先生の体躯(たいく)が、自分に比して長大であるところから、これを偉人と呼び、自分の躯幹が先生に比して遥かに小さいところから見て、小人と名附けたまでのことなのです。
 そこで、「ただ長酔を願うて、醒むることを願わざれ」
といったような、かなりの寛容な態度で道庵先生を扱いながら、米友は、その時に、また一つ昔のことを考え出しました。
 この先生こそは、自分に比して偉人であるのみならず、自分にとっては大恩人であるということの記憶が、この際あざやかに甦(よみがえ)りました。いったい自分というものは、伊勢の国の尾上山(おべやま)の頂から、血を見ざる死刑によって、この世界から絶縁された身の上なのである。
 一旦は全くこの人間社会から絶縁された身が、再びこの人間社会、俗に娑婆(しゃば)と呼び習わされているところの地上へ呼び戻されたのは、船大工の与兵衛さんのお情けもあるが、与兵衛さんは死骸としておいらを引取ってくれただけのものなんだが、その途中にこの先生が転がっていて、そのために計らずも自分はこの世界へ呼び生かされて来たのだ。与兵衛さんが身体(からだ)だけを持って来てくれ、この先生が再びそれに生命を吹き込んでくれたのだ。
 あの途中、この先生がいなければ、死骸としてのおいらを与兵衛さんが、そっと持って来て、それとなくドコかのお寺の墓場の隅っこへでも穴を掘って、おいらのこのちっぽけな身体を納めてしまい、そこでおいらはもう疾(と)うに土になってしまっているのだ。だから、あれからこっち――今日までの生命というものは、全くこの先生の賜物(たまもの)なんだ。
 先生のためにゃあ、生命を投げ出しても惜しくねえ――というのはあたりまえ過ぎるほどあたりまえなんだ。
 米友は、いつも考えて恩に着ている通りを、今もまた思い返したのに過ぎませんが、今日は、どうしたものか、それに一歩を進めて、
「だが、人間というやつぁ、生きているのが幸福(しあわせ)か、死んでしまった方が楽なのか、わからねえな」
 生死のことを考えると、どうしても米友は異体同心の昔の友を思わずにはおられません。昔の友というのは、間(あい)の山(やま)以来のお君のことです。お君を考えると、ムク――
「今ごろは、どこにどうしていやがるんだかなあ」
 さすがの豪傑米友が、ここに来ると、どうしても半七さんの安否を思いわずらうようなセンチメンタルの人となるのを、如何(いかん)ともすることができない。
 ああ、このごろ少し紛れていたのが、また湧き上って来やがった。
 いやだなあ――
 思うまいとして抑えると、意地悪く手に合わないように噴(ふ)き出して来る。
「いやだなあ――」
 拝田村の村と、村の田の畦(くろ)と、畑の畔(あぜ)とを走る幼い時の自分の姿が、まざまざと眼の前に現われて来ました。
 藁(わら)の上から、おいらは親というものの面を知らねえ――
 あの田圃の畔を流れる川の水は綺麗だったなあ、芹(せり)が――芹が川の中に青々と沈んでいやがった。鮒(ふな)を捕ったり、泥鰌(どじょう)を取ったり……
 お君ぁ、君公は子供のうちから綺麗な子だった。みんなが振返ったなあ。あいつが――あいつもお前、母親はわかってるんだが、父親というのはいったいドコの何者だかわからねえんだぜ――おいらとの間はまあ兄妹みたいなもんだが、本当は兄妹より上なんだぜ。子供のうちぁ、ふたり一緒に抱き合って藁の中へ寝て育ったんだ。子供のうちじゃあねえや、いい年になるまで――あいつが十の幾つか上になった時分に、
「もう友さん、二人で一緒に寝るのをよしましょうよ、人が笑うからさ」
とあいつが言ったから、おいら、
「うむ、寝たくなけりゃ、寝んなよ」
と言って、それっきり、二人は別々に寝るようになったんだが――いま考えてみると――米友は、何かしきりに意気込んで、眼に一種異様の光を帯びてきましたが、じっとしているうちに、涙が連々として頬に伝わるのを見ました。
「あの時分のように、藁ん中で、もう一ぺん君公を抱いて寝てやりてえ」
 今度は米友が、うわごとのように言いつづけました。
「育たなけりゃいいんだ、人間てやつは、いつまでも餓鬼でいさえすりゃ、男が女を抱いて寝たって、女が男に抱かれて寝たって、何ともありゃしねえんだ――人間は育ちやがるから始末が悪い」
と言い出しました。
 しかし、それは無理である。生きてる以上は育つなというのは無理です。そのくらいなら寧(むし)ろ生れるな――ということの抜本的になるには及ばない。だが、米友としては、「生れなけりゃよかったんだ、君公も、おいらも――いや、あらゆる人間という人間が生れて来さえしなけりゃ、世話はなかったんだが」という結論まではいかないで、ひときわの懊悩(おうのう)をつづけておりますと、ふっとまた一つ聞き耳を立てると、この懊悩も、空想も、一時(いっとき)ふっ飛んでしまい、思わず凝然(ぎょうぜん)として眼を注いだのが、例の、その以前から静まりきったところの納戸(なんど)の一間でありました。

         四十一

 しかし、今ここで勃然として気がついて、凝然として眼を注いだだけでは、米友として、もう遅かったのです。
 たしかに、あの一間の中から脱け出したに相違ないと信ぜられるところの一つの遊魂が、三所権現の方に向うて漂いはじめたのは、それよりずっと以前のことでありました。
 それは黒い着物の着流しに、両刀を横たえて杖をつき、そうして面(かお)は頭巾(ずきん)に包んでおりました。
 この深夜、鶏は鳴いたが、闇はようやく深くなり行くような空を、またしても、時ならぬ登山者が一人、現われたと見なければなりません。
 その足どりは先日、同様の夜山(よやま)をした弁信法師と同じように、弱々しいもので、十歩往(ゆ)いては立ちどまり、二十歩進んでは休らいつつ、息を切って進んで行くのは、まさに病み上りに相違ないが、でも、何か別しての誓願あればこそ夜山をするものでなければ、今時、飄々(ひょうひょう)と出遊するはずはありません。
 足どりこそ、たどたどしいもので、歩みつかれて息ぎれのする呼吸を見てもあぶないものだが、もしそれ、時とところとによっては、身の軽快なること飛鳥の如く、出没変幻すること遊魂の如くなるが――弥勒堂(みろくどう)あたりから松柏の多い木の間をくぐる時分に、これはまた、遽(にわ)かにパッと満身に青白の光が燃えついて来たのはどうしたものでしょう。
 その形相(ぎょうそう)を見るに、生ける長身の不動が、火焔を吹き靡(なび)かせつつ、のっしのっしと歩み出したようなものです。ただ、その火焔の色が、不動尊のは普通の火の如く紅(あか)いが、この物影から起る猛火は青いのです。
 それは青い火が後ろから飛んで来て、不意にこの物影にむしりついたのか、或いはこの物影の体内から自然に青い火が燃え出して、この雰囲気を作ってしまったのか、そうでなければその辺の焼残りの野火にでも触れて、忽(たちま)ちこんな火焔を背負わされてしまったのだか、そのことは、はっきりわからない。
 最初にあの家を出る時は、証跡(しょうせき)の誰にもわからないくらいでしたから、当然こんなに火を背負って出て来たはずはない。ここまで来る途中、いつ、どこでということなく、松柏の林をくぐるかくぐりきらないうちに、この通り火の人となってしまったのですが、この火は、世間普通の紅い火のように、この人を焼く力を持っていないことは確かで、かくも全身に火を背負わせながら、その足どりとしても、息づかいとしても、従前とさのみ変ることはなく、強(し)いてわれともがいてその火を揉み消そうなんぞとしない落着きを見ても、青くして盛んなる火には相違ないけれども、熱くして人を傷つける火でないことだけは認められる。
 のみならず、この物影がはっと物を踏み越えた時は、その足許(あしもと)から、木の間のさわりを払おうとして手を挙げた時は、その手先から、或いはくぐり入ろうとして傾けた頭巾の上から、つまり、全身からは全身として発火している上に、個別的に四肢五体の一部分を動かせば、その動かしたところから、青い火が湧いて出るのです。
 柳川一蝶斎の一座の手妻(てづま)に、水芸(みずげい)というのがある。錦襴(きんらん)の裃(かみしも)をつけた美しい娘手品師が、手を挙げれば手の先から、足をあげれば足の先から、扇子を開けば扇子から、裃の角からも、袴のひだからも水が吹き出す。今ここに現われた物影は、手品つかいの芸当を習い覚えて、その伝をここでひそかに実演を試みているわけでもあるまいが、その現われたところは、まさにあれと同工異曲で、御当人はそれを気にしていないこと勿論だが、もし、他人があって、たとえば剣(つるぎ)の巷(ちまた)にある人を呪(のろ)うて貴船(きぶね)の社へ深夜の祈りに出かけた悪女――には、出逢うところのほどの人がみな倒れて死んだように、相当の被害が無くては納まらないほどの事態なのだが、幸いにこの奇怪な現象は、誰の眼にも触るることなしに、ある時間を限っての後、消滅してしまいました。
 が、奇怪な現象が消滅すると共に、物影そのものの姿も、尋常一様の漂浪者の姿となって残されたが、それがやがて松柏の林の中へと、暫くは身を没して現われることがありませんでした。
 しかし、また、いくばくもなくして、同じような身を登山表参道へ現わしたところを見ても、この人の四肢五体が全く無事であったことがわかり、同時にあの青い火の光というものが、決して人をそこなう力のある気体ではなかったということが、充分に証明されるのです。
 してみれば、あれはいったい何のいたずらか。山に通なる人は言う、胆吹の山には、他の山に見られない幾多の怪現象が起る――本来、胆吹のように山が独立していると、天象の変化は、他の連脈的アルプス地帯に於けるよりも一層著(いちじる)しいものがある。例えばこの胆吹の如きは、日本本土の中央山脈とは相当の距(へだ)たりがあり、伊勢路から太平洋を前にして、後ろは日本海を背にしている。その遠近に大野があり、大湖があり、中国から内海へかけて山らしい山は無い。こういう山には、天界と、空界と、地上との現象が錯綜して起って、そうして一種幻妙不可思議な怪現象を捲き起そうということは、実に怪に似て怪ではないのです。たとえば、氷点下の山を襲って来る霧が、立っている物体にそのまま凍りついて、風の吹く反対の方へ重なり積って行き、思い設けぬヌーボー式の構造を見せると共に、普通、針金の太さを三尺にまでもして見せる霧氷というものがある。また太平洋から来る南風と、日本海から来る北風とが頂上で入り乱れて、気温が逆転し、頂上の方が非常に暖かくて、麓の方が著しく寒かったりすることもある。
 ことに、セント・エルモス・ファイアーというのは、日本に於ては、この胆吹山で発見されたのが最初だということだ。大海を航海中の船のマストの上に於てしばしば起ることのように、気象の関係で、物の尖端(せんたん)に電気を起し、青い焔が燃えさかる。しかし、この電気は、少しも人身に危害を与えることがない。
 といったような現象を考え合わせてみると、只今の怪現象も、必ずしも生身(しょうじん)の変態不動でもなければ、手品つかいのたわむれでもなかったとは言い得られる。ただ、右のような青い火の現象は、多く冬季の闇の夜の暴風の晩を以て現わるるを常とするというのに、今晩――今晩は通常の晩秋の夜気のうちなのです。

         四十二

 松柏の間をくぐり来(きた)って、春照からの表参道の大路へ通じた時、この物影はそこから爪先上りに登山路につくかと思えば、そうでもなく、ある地点でずっと横道を左へ切れてしまったところを見ると、はじめてこの物影は、誓願あっていちずに夜山をする人でないことだけがわかりました。
 そんならば、山上山下、或いは中腹のいずれに目的があって、さまよい出したのか、それも暫しは姿と共に掻(か)き消されてしまったが、また暫くすると、大平寺平(たいへいじだいら)の広場へ来て針のように突立っているのを見ました。
 動かしてみなければわからないくらいですが、杖ついた身の、針のようにそばだって立っているそのうしろは、むろん胆吹の本山ですが、前はどうでしょう、ずっと大スロープに尾を引いた浅井坂田の里を、一辷(ひとすべ)りに琵琶の湖まで辷った大景。
 琵琶湖が眼の下に胴面(どうづら)を押開いている。そうして四囲の山が赤外線で引立てたように、常日の眺めとは一層に峻厳に湧き立っているので、琵琶湖そのものが、さながらアルプス地帯の山中湖を見るように澄み渡り、このそそり立つ四囲の山々、谷々、村々、里々は、呼べば答えんとするところに招き寄せられている。
 沖の島、多景島、白石――それから竹生島(ちくぶじま)の間も、著しく引寄せられて、長命寺の鼻から、いずれも飛べば一またぎの飛石になっている。
 比良も、比叡も、普通見るところよりは少しく四五倍の高さを増して、手をつなぎ合ってこちらへ当面に向っている。堅田の御堂も、唐崎の松も、はっきりと眼の前に浮び上って来ている。
 三井、阪本、大津、膳所(ぜぜ)、瀬田の唐橋(からはし)と石山寺が、盆景の細工のように鮮かに点綴(てんてい)されている。
 針のように、そこに突立っている物影は、これらの四周の山水を見めぐらすのでなく、眼前の大スロープが湖水へ向って辷(すべ)り込もうとするある一点に眼を注いでおりました。他の部分の山川草木はすべて眠っているのに、そこばかりは夥(おびただ)しい火だ。家々の軒が火を点じているのみではない、町々、辻々には多分、盛んな篝火(かがりび)が夜明かし焚かれつつあると見える。
 そのところはまさに長浜の市街地であります。市街地であればこそ、他の山村水廓とはひときわ目立って火影の赤々と輝くのは当然ではあるが、それにしても、今晩のは明る過ぎる。もし、もの日か祭礼かであるならば、それに準じての物音がここまでも賑(にぎ)やかに響いて来てよい道理ではあるが、そういうもののけはいは少しも無くて、静寂の町々辻々に篝火だけがかくも夥しく焚きなされているということは、事それが、どうしても何かの非常時を示していないことはない。
 今晩、何かあの長浜の町に於て、特に非常警戒すべき出来事か、或いはその暗示。
 突立った物影は、一心にその町一杯の火の光を見詰めたまま、容易に動こうとはしませんでした。かくばかり熱心に長浜の市街地方面をのみ凝視(ぎょうし)しているところを以て見れば、その目指すところの目的は、あの長浜の町の辻にあるらしい。
 つまり、上平館(かみひらやかた)の一間からこの遊魂は、長浜の人里を慕うて下りて行かんとしてここまで漂うて来て、ここで暫く待機の姿勢をとって、そうして、虎視眈々(こしたんたん)として、長浜の町の辻に於ける獲物に覘(ねら)いをつけていると見れば見られないこともない。
 前例によると、こういう待機の姿勢には、危険きわまりなき事変が予想される。その昔、甲府城下の闇の夜半の例を以てしても……
 さすがに長浜の町の人々はもう先刻心得たもので、それ故にこそ、あの通り昼の如く町々辻々の隅々まで、篝火を焚いている。してみると、虎視眈々たる物影も、迂濶(うかつ)には足を踏み下ろせない道理です。
 長浜の町の辻の方にばかり気をとられていてはいけない――ちょうどここに突立って虎視耽々たる物影が、最初たどって来た方面の道から、春照からの表参道を外れてお中道(ちゅうどう)かと疑われたそれと同じ道を、こちらへ向って、平和な会話の音をさせながら、たどたどと歩み来(きた)るたった一つの提灯(ちょうちん)がありました。
「お母さん、あれが長浜の町ですか」
「そうです」
「篝火が盛んに燃えていますね、あれ、陣鉦(じんがね)、陣太鼓の音も聞えるではありませんか」
「さあ、お前、あれにつれ、あんまり勇み足になってはいけませんよ、勇士はいかに心の逸(はや)る時でも、足許を忘れるものではありません」

         四十三

 その話しながら来る場所が、こちらの突立っている覆面の人に、追々近く迫って来るのです。
 こちらでは、その人の話し声も、提灯の光も、それがだんだん近寄って来ることも、先刻御承知のはずなんだが、あちらでは、ここにこの人のいることを想像だもしていないことは確かです。よし、鼻を突き合わすようなところまで近づいて来たとしたところが、闇の空気の中に、この通り覆面の異装で立っていられては、気のつくはずはないのです。こういう場合にこそ、あの先刻のセント・エルモス・ファイアーが気を利(き)かして燃え出してくれればいいのに。
 こちらは先刻承知の上だからいいけれども、先方がかわいそうです。こう飄々(ひょうひょう)と近づいて来て、提灯を持っていることだから、鉢合せまでにもなるまいけれど、まかり間違って、あの長いものの鞘(さや)にでも触(さわ)ろうものなら、いや鞘に触らないまでも、提灯の光のとどく距離にまで引寄せられて来て、ハッと気がついたのではもう遅い。
 こういう場合には、こちらに好意があらば、空咳(からせき)をするとか、生あくびをするとかなんとかして、相当、先方に予備認識を与えて、他意なきことを表明してやる方法を講ずるのが隣人の義務なのです。ところが、こちらには一向にその辺の好意の持合せがないと見え、先方は遠慮なく近づき迫って来て、光は薄いながら提灯の灯(ひ)の届く距離の間で、早くも異風を気取(けど)ってしまいました。
「おやおや、どなたかおいでなされますな」
 気の弱いものですと、この際、これだけの事態で、もう口が利けなくなって、腰を抜かし兼ねまじき場合であったのですが、先方はたしかにこちらの異風を認めて、しかとその地点に踏み止まったにかかわらず、意外なのは、それが女の声で、しかも存外しっかりして、地に着いているのはその足許だけではありません。その声だけで判断しても、しっかりしてはいるけれども女の声には相違ないが、決してお雪ちゃんやお銀様のような音調や色合の声ではありません。むしろ良妻とか、賢母とかいうべき性質(たち)の、しっかりした調子で、「どなたかそれにおいでなされますな」と言葉をかけたのですが、こちらは無言でした。こちらからすべきはずの予備認識を以て隣人の義務を果さないのみならず、先方からの挨拶にも答えないというのは非礼を極めている、というよりは、害心をいだいていると判断してもさしつかえないでしょう。ところが賢母としての今の女の人の後ろに、清くして力のある子供の声が続いて起りました。
「お母さん、誰かいるの」
「ああ、それにどなたかおいでになります」
 そこでいったん踏み止まって多少の躊躇(ちゅうちょ)をしたけれども、それが済むと、この母と子は合点をして、その無言で突立った黒い姿の前をずんずんと通り抜けにかかりました。
 何でもないことのようですが、それはかなり大胆不敵な挙動と言わなければなりません。
 繰返して言えば、自分たちは礼儀をもって一応挨拶を試みたのに、先方は、その挨拶を返さないのみか、道路の真中よりは少し後ろへ寄っているにはいるらしいが、この場合、真中に立ちはだかっていると見て差支えない、それを一歩も譲ろうとさえしないのです。聴覚の全然喪失した不具の人でない以上、たしかにこちらに対して寸毫(すんごう)も好意を持っていないものの態度、しかも、篤(とく)と闇を透して見れば、覆面をして長い二つの、触(さわ)らば斬るものをさして突立っているのですから、無気味ということの以上を通り越して、害意もしくは殺意をさしはさんだ悪人と見るのが至当なのです。しかるにその前を、一応の挨拶だけで平気で子供を連れて通り抜けようとするのは、毒蛇の口へ身を運び入れるのと同様の振舞なのであります。
 しかも母の方は女のことであり、子は道中差にしては長いのを一本差しているにはいるが、これとても通常の旅の用心で、それ以上に二人には、なんらの武装というべきほどのものが施されてあるのではありません。
 しかし、無心というものの境涯こそは、あらゆる無気味に超越すると見え、この母と子は、すらすらと、この危険きわまる存在物の立ちはだかりの前を通り過ぎて、極めて安祥として二三間向うへ離れますと、
「どこへ行くのです?」
 この時、物静かに、はじめて発音したのは、こちらの無気味きわまる黒い姿の存在物でありました。
「はい」
と、また踏みとどまってこちらへ向きながら返答した賢母は、言葉は無論、足もとに至るまで前同様少しの狼狽(ろうばい)さえ見えません。
「長浜までまいります」
 行先までをはっきりと名乗りました。
「長浜へ、長浜の町では、今晩何か物騒がしいようです」
「はいはい、陣触れがございます」
「陣触れが」
「はい、それであの通り篝(かがり)を焚いているのでありまする」
「ははあ。それはそうと、拙者もその長浜まで参りたいと存ずるのだが、道がちと不案内でしてな、御一緒に願われまいか」
 黒い姿は存外静かに、物やさしい頼みぶりでしたけれども、それだけにどこか、つめたいところがあり、いっそう無気味なる物言いと受取れないではないが、提灯(ちょうちん)の賢母はいっこう物に疑いを置くことを知らぬ人と見えて、
「それはそれは、長浜はあの通りつい眼の下に見えておりまするが、ここからはまた、道順というものもござりまして、それは私共がようく心得ておりまする故、失礼ながら御案内をいたしましょう」
「では頼みましょうか」
 そこで、提灯がまた動き出すと、黒い姿もむくむくと動いて来て、母と子との間に割り込むというよりは、二人が中を開いて、この人を迎えるような態度をとり、そこで提灯の母が先に、十二三になる凜々(りり)しい男の子が殿(しんがり)という隊形になりました。
 しかしまた、これでは送り狼を中に取囲んで歩き出したようなもので、一つあやまてば、二つとも一口に食われてしまいはしないか。事実上、そういう隊形になっていながら、気のいい母と子は、一向、懸念も頓着も置かないのは、送り狼そのものを眼中に置かぬ狼以上虎豹の勇に恃(たの)むところがあるか、そうでなければ全然、人を信ずることのほかには、人を疑うということを知らぬ太古の民に似たる悠長なる平民に相違ない。
 そこで、この三箇が相擁して、胆吹から長浜道へ向けて、そろりそろりと歩き出しました。
 そうして、また途中、極めて心置きなき問答が取交わされました。
「どちらからおいでなされた」
と黒い姿の方は、相変らず存外打ちとけた話しかけぶりでした。提灯の賢母は最初からあけっ放しの調子で、
「尾張の国の中村から参りました」
「尾張の中村――」
「はい」
「それはずいぶんと遠方ではござらぬか」
「左様でございます、ここは近江の国、美濃の国を一つ中にさしはさんで、これまで参りました」
 ついぞこの辺の里の女童(おんなわらべ)の夜明け道と心得ていたが、尾張の中村から三カ国をかけての旅路とは、ちょっと案外であった。
「それはそれは、なかなか遠方からおいでだな。そうして、長浜へは何の御用で?」
と黒い姿。
「あれに親戚の者がおりまして」
「親戚をたずねておいでなのですか」
「はい、木下藤吉郎と申します、あれが今、長浜におりまして、わたくしの従妹(いとこ)の連合いになっておりますので」
「木下藤吉郎」
 聞いたような名だ! と、黒い姿が思わず小首を傾けました。
「はい、その従妹の連合いが、今たいそう出世を致しまして、江州の長浜で五万貫の領分を持つようになりました」
「冗談(じょうだん)じゃない」
と、黒い姿もさすがに桁(けた)の違った母の人の言い分に驚かされ、呆(あき)れさせられたように投げ出して言うと、賢母は、
「いいえ、冗談ではございません、昨晩からの陣触れも、あの篝(かが)りも、みんなそのわたしのいとこの連合いがさせている業なのでござります」
「途方も無い。だが、もう一ぺん、その人の名を言ってみて下さい」
「木下藤吉郎と申します」
「は、は、は、何を言われる、木下藤吉郎、それは太閤秀吉の前名ではござらぬか」
「別に、こちらの方では、太閤と申しましたか、秀吉と申しましたか、そのことはわたくしたちはよく存じませぬが、わたくしの従妹の連合い木下藤吉郎がたいそう出世を致しまして、只今、あの江州長浜で五万貫の領分をいただいているのは確かなのでござります、そこへ、わたくしはこの子を連れて、尾張の中村から訪ねて参る途中なのでござります」
 賢母らしい人は信じきって、こう言うのですから、義理にも冗談とは受取れないので、ばかばかしいと思いながら、覆面の黒い姿はそのままでもう一歩進んでみました。
「そんならそうとして、さて、あなた方は何の目的でそれをたずねておいでになる」
と、駄目を押すようにしてみると、

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